4月 2

子供の頃からマリリン・モンローが好きだったのは、 自分とよく似ていると直感的に思ったからかもしれない。 「失礼します」 「いらっしゃいませ・・・」 藤皇帝叶(とうおうていか)が地下の入口にカードキーを当て中に入った途端、 声を掛けてきたカウンターの中にいる男性の行動が止まった。 帝叶は苦笑いを浮かべる。 「やっぱり未成年はダメですか?」 「ダメじゃないよ」 「・・・酒を飲まないなら」 「夕食がまだなんです」 「・・・こんな時間なのに?」 カウンターの中にいるもう一人の人間が、首を傾げた。 服装は完全に男性用のバーテンダーの制服だが彼女が女性なのは知っている。 帝叶は苦笑いを浮かべたままコクリと頷いた。 新学期早々に取った講義でレポートの課題が出てしまい、苦戦していたのである。 去年の3月までアメリカに住んでいた彼女には日本語の読み書きは少々苦痛だった。 「忙しいね」 「医学部よりかは暇だと思います」 「スワンは医学部の忙しさを知らねぇよ。大学一瞬だから」 カウンターに座っている先客はこの店の直ぐ傍にある、 ファルコン記念病院整形外科所属の医師、白鳥雪姫(しらとりゆき)だった。 天才、と呼ばれる彼女は現在帝叶と同じ、今年19歳の筈である。 現在の専門は整形外科ではあるが、 脳外科、 心臓外科を始めとした殆どの医療業務に精通している事や、 13歳までアメリカにいた事もあり、日本に来てからの帝叶の担当医である。 雪姫が隣の席を促したので帝叶は軽く会釈してから隣りに座った。 同い年とはいえ、一応医者と患者の関係ではある。 帝叶と同じく未成年である雪姫の前には もちろんアルコールではなくオレンジジュースのグラスが置いてあった。 食べているものはナポリタンらしい。 ちなみにこの店にはメニュー表というものが無い。 「美味しそうですね」 「帝叶ちゃんもそれでいい?それならすぐにできるけど。材料もあるし」 「あ、お願いします」 カウンターの向こうでテキパキと彼女が調理を始める。 彼女は帝叶よりも2歳年上で、聖龍学園大学の医学部に通っているらしい。 初めて養父に連れられてここに来た時に 杉乃里雪菜(すぎのさとゆきな)という名前だということを教わった。 ちなみにマスターである男性の苗字は武藤(むとう)である。 「ちなみにおいくらになりますか?」 「あ、月末でのカード精算って聞いてない?」 メニュー表が無いということは価格表がないということだった。 帝叶は急に持ち合わせに不安を抱き恐る恐る聞いてみれば、雪菜が首を傾げた。 「あのね、武藤くんが適当に売価決めているから後で請求が来るんだよ。 大丈夫、そんなに高くないよ。詐欺じゃないし」 「すみません、一人で来るの初めてで・・・」 「御飯作るの面倒な時は来たら良いよ。 上のカフェは昼間しかやってないけど、そのカードなら夜も入れるでしょ?」 「そうですね。でもこのカードは千晃くんのだから、千晃くんに請求が行っちゃうな・・・」 10歳しか歳の離れていない養父からは毎月仕送りが送られてくる。 彼は月の半分アメリカで仕事をしている。 帝叶の母親と離婚して血の繋がっていない帝叶を引き取り、 男手一つで大学に通わせている彼にこれ以上の負担を掛けたくはなかった。 ただでさえ車も彼のお下がりを渡されてしまっているのだ。 「私用に会員証って作ってもらえませんか?」 「クレジットカードがあれば」 帝叶の質問に反応したのはフライパンを振るう雪菜だった。 「でも、千晃は別に気にしないと思うぞ。ここに来るようにってその会員証渡したんだろ?」 「まあ、変なお店行くよりも安全だからねぇ。 医者が頻繁に出入りしているから急性アル中になっても誰かしらが助けてくれるし」 ナポリタンを食べながらそう言った雪姫を武藤が睨む。 夕食とかで困ったらこの会員証でこの店に来るようにと渡されたのは確かである。 知らない店よりも知っている店の方が安心できるということでここに来たのも確かだが、 ここまで完全な会員制であることは知らなかった。 昼間1階で営業中の喫茶店にしか行ったことが無かったのだ。 しばらくして出てきたナポリタンを食べる。 ナポリタンを初めて食べたのは一年ほど前。 日本に来てからだ。 「帝叶ちゃん、飲み物はなに飲む?そっちのお子様と一緒はマズイだろ」 「・・・お子様で悪かったね」 「あ・・・コーヒーで」 「あ、コーヒー好きなんだったよね」 「あんな苦い飲み物、ブラックで良く飲めるよね」 「スワン先生はダメですもんね、ブラックコーヒー」 ニコニコと微笑んだ雪菜がテキパキとコーヒーを淹れる。 出てきたコーヒーの香りだけでこれは美味しいコーヒーだと判断ができた。 喫茶店でコーヒーを飲んだ時にも十分美味しかったコーヒーは、 こちらのバーでも同じクオリティを保っているらしい。 満足しながらナポリタンとコーヒーを楽しんでいると、サービス、と一つ皿が置かれた。 そこに乗っていたのはシンプルなドーナツで帝叶は思わず顔を上げる。 確かに帝叶はシンプルなドーナツが好きだった。 甘い物は軒並み苦手だが、シンプルなドーナツだけは好んで食べるのだ。 これは偶然なのか、なんなのか。 「あ、帝叶だけズルイ!」 「あの・・・これ・・・」 「千晃が好きだって言っていたから。 で、たまたまあったから。スワン、お前にはちゃんとケーキを出してやるから」 それならいいと静かにナポリタンを食べ始めた雪姫を見て、思わず笑みが零れた。 その姿はとてもじゃないが、医者には見えなかったからである。 白衣を着ている時は若干幼い顔とはいえ立派に医者に見えるのに。 今の姿は帝叶と同い年なのに、かなり年下に見えた。 彼女が天才医師だなんて何かの冗談にしか思えない。 しばらく静かに食事を取る。 二人しか居ないバーテンダーの二人は他の客の接客もテキパキとこなしていた。 「大学、どう?楽しい?」 帝叶は今年から東京大学の工学部へ通っている。 先日行われた入学式では新入生代表挨拶を無理矢理させられた。 他にする人が居なく、くじで決まったのではないかと帝叶は思っていた。 「まあまあ、楽しいですよ。・・・変な出会いもあったし」 「・・・変な出会い?」 「おい、変な人にはついていっちゃダメだぞ」 「そのぐらい、帝叶ちゃんも分かっているでしょ。で、その変な出会いってどんな出会い?」 帝叶が千晃から移動用に渡されている車は真っ赤なポルシェ911カレラカブリオレである。 日本ではオープンカーと呼ばれる類のスポーツカーだ。 スポーツカーが大好きな千晃は アメリカでもスポーツカー以外の車に乗っている所は見たことがなかった。 この車は千晃が今まで日本での移動用に使っていた車らしい。 言わずもがな、ド派手である。 「運転は楽しいんだけどな・・・」 「凄い車やね」 家の近くのコンビニに車を駐めた。 これから聖龍学園大学まで 同居人である三琴天使(みことあつか)を迎えに行かなければならなかった。 夕食の買い物に一緒に行く約束をしているのだ。 一応あまり物が乗らないとはいえ、車である。 徒歩で持ち運ぶよりかは断然楽だった。 東京大学まで車で通えないことはなかなか不便だった。 駐車場が完備されている聖龍学園大学へ エスカレータ進学した方が楽なんじゃなかっただろうかと未だに何度も思っている。 コーヒーが飲みたくなったのでコンビニに入ろうとした時、後ろから声を掛けられた。 「・・・私ですか?」 「ああ、ごめん。車から降りているところ見てついつい」 振り返れば困ったように苦笑いを浮かべた男性が居た。 相当怪し気な表情を浮かべていたのだろう。 確かに18歳の女がポルシェから降りてくれば目立つだろう。 帝叶は笑みを浮かべて会釈をした。 何の用だろうか。 この人は車が好きでポルシェに興味があるのだろうか。 確かにポルシェはカッコイイし、見た目が美しい。 千晃は日本での移動用にランボルギーニ・カウンタックを買ったが、 帝叶はそれよりもこのポルシェの方が何倍も気に入っていた。 千晃はどうしてもシザードアの車に一度乗ってみたかったようである。 「これから何処に行くの?」 「ナンパですか?」 「・・・ナンパと思われても仕方ないな。まあ、どう見てもナンパやし」 「友人の大学に迎えに行くんです」 「何処の大学?」 「聖龍学園大学」 はたして素直に答えていいものなのか悩んだが、どうも怪しい人には見えなかった。 何処からどう見ても上品なオーラがそこかしこから漂っている。 結局帝叶が素直に答えると、彼は友人がそこに通っていると答えた。 聖龍学園大学はご子息ご令嬢御用達の学園に付属した大学で学費も相応に高い。 ということはやっぱり彼は只者ではなく、上品な身分の方だと思われる。 少なくとも彼の友人は。 発言が嘘でなければ。 「君も大学生?」 「一応」 「大学何処?」 「・・・・・・東京大学ですけど」 「・・・同じや」 驚いたような表情を浮かべた彼が驚きの発言をした。 帝叶が軽く首を傾げれば信じていないと思ったらしい彼がポケットから財布を取り出し、 更にその中から学生証を取り出して帝叶に見せた。 「宇佐木楓都」という名前らしい。 アメリカ暮らしが長く、漢字があまり得意ではない帝叶には残念ながら名前が読めなかった。 日本人の名前は難しい。 苗字で既に一万種類とか言っているほどだ。 読めるわけがないと開き直っていた。 「東京大学の法学部やねん。ま、全然単位取ってないけど」 「はあ・・・」 「名前聞いてもええ?」 何て馴れ馴れしい男なのだろうと思った。 確かにこの男はちゃんとした東京大学の学生のようではあるが、 この男にどうして名前を名乗る必要があるのか。 こんなところで名前を名乗ったが最後、 なんだか怪しいことに巻き込まれるんじゃないだろうかと思ったが、 やっぱりどう見ても目の前の男が怪しいことをするような男に見えなかった。 もっとも詐欺師というのはそういうものかもしれないが。 どうしようと眉を寄せた帝叶に彼が苦笑いを浮かべた。 「ああ、ごめん。 俺怪しいよな。えっとじゃあ・・・人違いやったらごめんな。もしかして藤皇帝叶ちゃんですか?」 「はぁ!?」 頭の中が真っ白になるところだった。 どうして今日初めて会った男が自分の名前を知っているのかが分からない。 もしかしたら会ったことがあるのかもしれないと 頭の中を検索かけてみるが該当する顔は思い当たらなかった。 難しい表情を浮かべていたのだろうが、 軽く笑い声を上げた彼が、 同居人が千晃に世話になっていると告げ、 彼女の顔の写真を見せてもらったことがあると教えてくれた。 千晃はどんだけの人に自分の顔を見せて歩いているのかと考えると頭を抱えたくなった帝叶であった。 「・・・という出会いがあったんです」 「楓都くん、それナンパ」 「え?知っているんですか?」 彼女がアメリカ出身で漢字が読めないと素直に白状すれば、彼は自分の名前の読み方を教えてくれた。 「うさぎふうと」と読むようである。 読むようではあるが。 「うちのお客さんだよ。楓都くんは」 目の前の武藤が微笑んでそう言ったので、思わず帝叶の手が止まる。 日本は確かにアメリカよりも段違いで狭いが、こんなに狭くていいのだろうか。 「楓都さんの同居人の翡翠(ひすい)さんが飛行機事故の遺族なんです」 「え・・・」 「まあ、翡翠くんは祖父母だけどな」 「千晃さんにはお世話になっております」 ペコリと雪菜が軽く頭を下げた。 雪菜が5年前の天空航空機墜落事故の被害者の遺族だということは初めて来た時に知っていた。 当時、帝叶はアメリカに住んでいたが、 アメリカから日本へ向けて飛んでいたその航空機の墜落事故のニュースは アメリカでもトップニュースとして連日放送していた。 乗客の半分近くアメリカ人が乗っているらしかった。 日本人も3分の1程は乗っていただろうか。 医学系の大きな学会が日本であるらしく、かなりの人数の医者が乗っていたらしい。 「帝叶さんは宇佐木書店を知ってますか?」 「ついでに言えば、翡翠楓都って作家知ってる?」 「いくら、日本語読まない私でも流石に宇佐木書店は知っていますが・・・ 翡翠楓都は存じ上げませんね。有名なんですか?」 「最近人気急上昇中の作家ですね」 「宇佐木書店、翡翠楓都、宇佐木楓都。なんか共通点無い?」 「あの人、一応ああ見えて、作家さんなの。ナンパしてくるチャラ男じゃないのよ」 お腹を抱えて笑っている雪姫を見て彼を思い出した。 作家・・・本人はそんなことは一言も言っていなかった。 東京大学に通う学生だと言っていた。 諸事情で単位が取れていないという彼に深い理由があるのだろうと詳しくは聞かなかったのだ。 もちろん、自分が宇佐木書店の御曹司だなどとは露ほども聞いていない。 確かに全身から上品なオーラはこれ以上ないぐらい出ていたが。 武藤が奥から本を何冊か持ってくる。 どうやら客として来た楓都が献本していったらしい。 確かにそこの作者欄には翡翠楓都と明記されていた。 「これを置いていったのは楓都くんじゃなくて相棒の翡翠くんだけど。勝手に置いて行きやがって」 「営業活動じゃないですか。いいことです」 「20冊置いていこうとしたので断りました。ここは本屋じゃありません」 それでも5冊置いて行かれて困っていますと雪菜が眉を寄せた。 どうやら本当に困っているらしい。 確かに同じ本が5冊もバーに置かれても邪魔だろう。 持って行っていいですよ、と言われたが生憎帝叶は日本語の本は読まないので丁重に断って返す。 もし、同居人の天使が読むようなら借りてもいい。 「刊行ペースが早いのはいいんだけど、出す度に置いて行かれても困るよな。 人気なんだからこんなところに置かなくてもいいだろうに」 「そうなんですか」 「そっか、楓都くんと仲良くなったのか。あれだよ、楓都くんも両親と仲悪いよ」 食後のデザートとしてアップルパイのバニラアイス乗せが出てきた雪姫は 満足そうにアップルパイを切りながらさらりとそんなことを言う。 世間には親と上手くいかない子供が案外多いようだ。 「相棒の翡翠くんは鶴亀出版の息子さんでね、翡翠楓都の小説は全部鶴亀出版から出ているんだよ」 「そりゃ宇佐木書店は面白く無いでしょうね」 「でも、うちよりも仲良くない親子は居ないと思いますよ」 「・・・・・・帝叶の親は千晃くんしか居ないんじゃなかったっけ?」 とぼけたように首を傾げた雪姫は知っている。 帝叶の主治医なのだ。 帝叶の全身に付いている痣や煙草を押し付けた後、首元には索条痕まであるのを知っている。 俗にいう虐待痣。 多分もう一生消えることはないだろう傷。 帝叶は彼女の気遣いが純粋に嬉しくて微笑んで頷いた。 笑顔は得意分野だった。 昔から。 飛行機事故で死んだのが人の母親ではなく自分の母親だったらよかったのにと何度思ったことか。 自分が人を愛せなくなっていたとしたら間違いなく彼女の所為だった。 「世界って不公平ですよね」