4月 3

朝。 福に朝だと叩き起こされ、眠い目を擦りながらダイニングテーブルへと向かった。 相変わらず豪華な朝食が既に準備されていてそれを感謝しながら食す。 テーブルの上には新聞も置かれており、 一応大学職員として目を通して置かなければならないだろうとざっと目を通した。 聖龍学園大学スクールカウンセラー、 そして心理学部心理学科助手として勤務を初めて5日目、 お陰様でカウンセリング室は日々満員御礼であった。 いいことかは分からないが。 「今日夕飯何?」 「朝飯食いながら夕飯の話か!まだ決まっとらんよ」 「よっくん、流石に気が早い」 「昼飯は要らへんのやろ?」 「ああ、うん。大学やから。大学の傍で適当に済ませる」 「久しぶりにエトワールとか行ったら?」 全員分の朝食を用意した福が自分もテーブルに付き食事を始める。 徳永家では使用人である三橋家も一緒の食卓につく決まりだった。 それは駿河家にも導入されている。 「俺も久しぶりに行きたいな」 「行けばいいじゃない。昼間は福ちゃん自由なんだし」 「そうなんやけどさ」 「今度一緒に行こうよ」 コーヒーを一口飲んでから遊唯が微笑んだ。 「エトワールの・・・娘さん・・・えっと・・・雪菜ちゃんやっけ。おったよな?」 「ああ、うん。エトワールでバイトしてるよ」 「え?バイトしとんの!?」 福が驚きの声を上げる。 聖龍学園大学の近くにある喫茶エトワールは知る人ぞ知る名店だった。 昼間はカフェとして営業しているが、個室もあり、商談や会議などにも使われている。 そして夜は会員制のバーになることでも一部では有名だった。 「・・・夜の方もやっとるの?」 「もちろん。だってそっちの方がメインだよ?」 「ああ、やっぱりな」 「雪菜ちゃんもバーテンとして働いているよ」 「・・・バーテン?」 「うん」 マスターの親戚なのか詳しいことはよく知らないが、 由樹と福が駿河家に連れられて行った時には小さな女の子が居た筈である。 性格が雄々しくて少し驚いたが、美人なことは間違いはなかった。 「マスター元気?」 「確かに元気だけど・・・」 「顔が全然変わらない」 マスターが作るケーキは美味しいから別にいいんだけどと遊梨が呟いた。 由樹は当時のマスターの顔を思い浮かべる。 確かその時も20代にしか見えない彼の顔に度肝を抜かれた記憶がある。 あの顔から全く変わらないなんていうことがありえるのだろうか。 最後にエトワールに行ったのは1年程前。 まだ由樹が大学院生だった時である。 彼は今年40歳になる筈であった。 それであの顔だとしたら確かに化物である。 「最早あれは化物よ。思わずガン見しちゃうと思う」 「お化け!って口から出ちゃうかも」 「そしたら怒られるよ」 「行ってみたいな、怖いもの見たさで」 「でも相変わらず武藤さんはカッコイイよ」 「そうね。化物だけどね」 あーだこーだと言っている内に時間はあっという間に過ぎていく。 朝はなんでこんなに時間が経つのが早いんだと愚痴りながら由樹は福に急かされながら玄関へ。 「リリィちゃんは一限から?」 「そうだけど」 「じゃあ、車乗って行きや」 「・・・いい」 「俺も行くんやから一緒に乗って行ったらええやんか」 軽く首を振った彼女に手招きする。 ここから聖龍学園大学まではバスで行くことになるはずだ。 バスの時間を待つよりも由樹の車に乗って行く方が効率的である。 「友達とかおるんやったら友達も乗せてやるし」 「別にいないけど」 しばらく困った表情を浮かべていた遊梨はしばらく悩んでから諦めたような表情を浮かべた。 何を言っても無駄と判断したのだろう。 何を言ったところで、由樹の案が効率的なのである。 遊唯は残念ながら一限目からの講義ではないということで後一時間ほど遅くバイクで登校するらしい。 くれぐれも運転には気を付けるように忠告してから家を出た。 由樹が車の免許を取ったのは18歳の時、彼女は12歳だった。 車の免許を取ったと報告したら、彼女はずっと車に乗りたいと言ってくれていた。 京都に来たら車に乗せてあげると約束し、 その歳の夏、実際に彼女を車に乗せてあげたことを覚えている。 初心者なのと彼女を隣に乗せているというのもあってとても緊張したのを今でもすぐに思い出す。 「車・・・変えたんだ」 「ああ、せやねん」 「ごつい車好きだよね」 「リリィは嫌い?」 「うん、嫌い。スタイリッシュな車が好き」 初めて買った車は確かにスタイリッシュだったかもしれない。 運転にある程度慣れてきて両親が、自分の乗りたい車を、と提案してきた。 脛を齧るのはちょっと気に入らなかったが、 まだ大学生だったというのもあって車を買える経済力が自分にはなかった。 親にちゃんと返すという約束で買ったレンジローバーが今の愛車だ。 「前の車はおとんのお古やから」 「前の方が好きだった」 「それはすまんな」 「助手席でいいの?」 「もちろん」 いつから助手席に乗る時に遠慮することを覚えたのか。 助手席に乗るように促せば 助手席に乗り込んだ彼女がキョロキョロと車内を物珍しそうに見渡した。 女性を感じさせるものは一切乗っていない自信がある。 乗っていても京都にいる実の妹の物ぐらいだろう。 女性を車に乗せたことは数える程度しか無かった。 どうしても車の中というのは自分だけの空間にしたかったからである。 遊梨や遊唯は特別だった。 「昔、運転下手やった」 「上達してないと思わんといてや」 「ふふ、そうだね」 久しぶりに微笑んだ気がして由樹も思わず笑みが溢れる。 男というのはなんと単純な生き物だろうと思う瞬間である。 エンジンを掛けてしばらくふかしてから車を発進させた。 しっかりと遊梨は言われなくてもシートベルトを止めていた。 由樹はそれを確認してから敷地内を出る。 「にしても、ホンマに大人になったわ。昔お風呂に一緒に入ってたとは思えん」 「その話、絶対に大学でしないでね」 ハンドルを握っていたので前を見ていたのだが睨まれたことは分かった。 由樹は小さく肩をすくめながら了解の意思を見せる。 流石にそれを友人の前で言われるのは恥ずかしいというのはよく分かっていた。 福の両親から友人の前で由樹の成長過程が語られた時には そのまま消えてしまいたいと思ったものだ。 後で福が叱ってくれたが。 「あ、リリィ」 「・・・その呼び方しないでくれる?」 「え?なんで」 「なんでも」 2限目の終業チャイムが鳴り、昼でも食べに行こうかと外に出る。 学食は人でごった返していて、売店もそうだった。 できるなら時間をずらして昼食を取りたいところであったが、本日はそれも難しかった。 午後にカウンセリングの予定が入っているのだ。 由樹が就任してからカウンセリング室は悩める学生たちによって、いつも予約が埋まっていた。 決して良いことではないが、悩みを打ち解けられる場所を作るのは大切なことである。 何処で食事を取ろうか考えながら入り口までぶらぶらしていた時に彼女を見つけた。 「今日朝話してたやん、エトワール」 「うんそうね」 「今から行かへん?」 「は?」 彼女が思わず大声を上げた。 ここからエトワールはさほど遠くはないが車で移動しなければならない距離である。 お昼に聖龍学園大学の生徒が行くにはちょっと遠い。 幸い、午後のカウンセリングは 2時前にカウンセリング室にいれば間に合うので少しゆっくりはできる。 後は彼女の講義次第だった。 「次の講義はないから行ってもいいけど」 「朝から話したからさ、行ってみたいなと思って」 彼女達が言う化物のマスターも見たいではないか。 遊梨が首を縦に振ったので早速彼女を連れて愛車の場所まで歩く。 聖龍学園の敷地は広い。 一番離れている幼稚部と大学では真面目に歩けば30分ほどかかってしまうのではないだろうか。 実際聖龍学園にはバス停が何個か有り、門は数えきれないほどある。 そして駐車場もそうだった。 彼は心理学部研究室に一番近い文学部棟駐車場と呼ばれている駐車場に車を駐めていた。 そう呼ばれているだけで正式名称は知らない。 もしかしたら正式名称はないかもしれない。 大学の敷地内でも駐車場は幾つかあるので 何処に駐めているか分からなくなれば文字通り地獄のようである。 愛車を無事発見してドアのロックを開ける。 学生がこちらを見ているような気がするがあまり気にしない。 昔から目立つのには慣れていた。 由樹はどうやら昔から目立つ種類の人間のようで望んでなくても何故か注目を集めていた。 家が名家だったからだろうか。 同じく目立つであろう遊梨が助手席に乗ったのを確認して車のエンジンを掛けた。 「いらっしゃいませ」 「いらっしゃいませ」 「こんにちは」 「あれ?遊梨ちゃん?」 「そうなんです。来ちゃいました」 エトワールの外装は由樹の記憶の通りだった。 ファルコン記念病院の直ぐ側にあるその喫茶店のマスターは元医者だという。 今でもファルコン記念病院の非常勤医師として契約はしていて忙しい時は助っ人に行っているらしい。 確かに今年40歳になるとは思えない顔付きである。 20代と言われても驚かないだろう。 彼は愛想よく微笑んでテーブル席を指した。 そこに向かい合わせで座ればウェイターの姿をした女の子が水とおしぼりを運んでくる。 髪が長いのと、 彼が女の子だと知っているから女の子だと分かるのであって、 パッと見は男性かと思われるような服装、出で立ちだった。 「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」 笑顔で去っていった子が昔見たあの女の子だろうか。 かなり身長が高かった。 そして美人である。 それにしてもこの店はウェイトレスの制服はないのだろうかと辺りを見回した。 お昼ではあるが、隠れ家的なカフェということも有り、客はそんなに居ない。 一般客よりも近くにあるファルコン記念病院の職員を対象としているので、 客が来る時間帯はバラバラのようだ。 今はマスターが料理を一人で作っているらしい。 「雪菜ちゃんは聖龍学園大学の医学部生なんだよ」 「医学部・・・」 確か彼女の実の両親は5年前の飛行機事故で亡くなったのではなかったか。 そんな話を聞いたような気がする。 どういった経緯でマスターが引き取ったのかは知らないが、 マスターの元職業を志したのだろうか。 注文を取りに来た雪菜ちゃんは遊梨とはすっかり顔見知りらしくにこやかに会話していた。 どうやら医者にはなりたくないらしい。 ならどうして医学部に通っているのかは分からないが 医学部に進学した人すべてが医者になるわけではないのは確かだ。 自分が今年から聖龍学園大学のカウンセラーになったと自己紹介すれば もちろん知っていると頷かれた。 遊梨が勝手にナポリタンを2人分注文する。 由樹は味覚が幼いと福に馬鹿にされるぐらい子供が好きな食べものが好きだった。 遊梨が注文するということはおすすめメニューなのだろう。 笑顔でメニューを復唱した雪菜ちゃんはカウンターに戻っていく。 カウンターの中からマスターに睨まれた気がした。 「・・・え?俺なんかしたかな・・・」 彼女のおすすめメニューであるナポリタンは美味しかった。 マスターに何故か何度か睨まれるという不思議な体験をしてから店を出て大学へと戻る。 彼女とカウンセリング室の前で解散し午後の仕事へと戻る。 カウンセリングの他にも彼には仕事がある。 主に准教授が嫌がる仕事を押し付けられるのだが。 今度の学会で発表するから資料を纏めておくように頼まれた資料を呼び出して溜息を吐いた。 「何にもしとらんやんか」 「どうしたの?」 「うわ!・・・なんやリリィか」 「誰も居なさそうだったから来てみた」 驚かせることに成功したのが嬉しいのか ニコニコと笑顔を浮かべた遊梨は由樹の向かい側の席に座った。 ノートパソコンとにらめっこしていた由樹は眼鏡をしている。 普段はコンタクトなのだが、 午後に少し目が疲れた気がしたので どうせこれからはカウンセリングの予定は入っていないからとコンタクトを取ってしまったのだ。 遊梨は由樹の眼鏡姿をよく知っているのであんまり驚きの表情は浮かべない。 「どないしたん?」 「遊びに来たの」 「相談したいことがあるんじゃなくて?」 「うん」 「コーヒー淹れようか?」 彼女が好むのはココアだとは分かっていた。 しかし、残念ながらここにはココアは常備されていない。 今度用意しておかないとと頭の中にメモする。 「・・・コーヒー飲めたよな?」 「紅茶があるならそっちがいいけど」 「紅茶?」 「無いならコーヒーでいいよ。砂糖とミルクあれば」 「飲みたい物持ってきてや」 そういえば、遊梨と遊唯は紅茶が好きだったはずである。 駿河家には確か紅茶の葉の種類が豊富にあった。 福ですらよく分からないと首を傾げていたのを思い出す。 「砂糖とミルクあるからコーヒーな」 「仕方ないよ。予約してないし」 「ん・・・」 「今度ココア用意しておいて」 「紅茶やなくて?」 「紅茶でもいいけど」 気が付いたら飲み物の種類がとんでもなく豊富になっているんじゃないか と思いながらコーヒーを淹れる。 スティックシュガーとミルクを持って行き 遊梨の前に置けばにっこり微笑んでありがとうとお礼を言われた。 そんな立ち振舞を一体何処で覚えたんだと頭を抱えたくなる。 社会人としては大変必要なスキルではあるが、彼女がすると男を惑わせる仕草にしか見えない。 噂ではかなり男の出入りが激しいと聞く。 あんまりよろしくないことだ。 決して人のことは言えないので注意は出来ないが。 注意したら最後、100倍どころか 1000倍になって返ってきそうだった。 こちらも適当に微笑んで自分の分のコーヒーを向かい側に置く。 スティックシュガーを1本入れる。 彼女は3本入れていた。 「皆に淹れてあげてるの?」 「ああ、うん」 流石甘党の彼女である。 そんなに砂糖を入れたら砂糖の味しかしないんじゃないか と思いながら自分の分のコーヒーを飲んだ。 彼も甘党ではあるが彼女ほどではない。 カウンセリングでは必ずコーヒーを出すようにしている。 お茶を飲みながらゆっくり話してもらいたいのと話しているとやっぱり喉が渇くからだ。 そして自分も水分を取るため。 福にコーヒーの淹れ方は教わったので下手くそではないはずである。 それでもコーヒーが苦手な子もいるだろうから、 やっぱり紅茶や緑茶、ココアを用意するのは必要なのだろう。 経費で落ちるだろうか。 事務に掛けあってみる必要がありそうだ。 「3本も砂糖溶けるん?」 「溶けるよ、失礼な」 「飲まして。うわっ・・・甘すぎる」 「あ・・・もう!」 彼女が浮かべた表情で、自分が彼女と間接キスをしたことに気付いた。 「昔は全く気にしなかったのにな」