4月 1
「なあ、リリィ」
「何?」
「今日暇?」
「・・・・・・特に予定はないけれど」
「そう。じゃあさ、付き合って欲しいんやけど」
「・・・・・・何処に?」
「大学。案内して」
「・・・いいけど」
徳永由樹(とくながよしき)は目の前で朝食を摂っている駿河遊梨(するがゆり)に声を掛けた。
彼女は一瞬眉を寄せてからコクリと頷く。
去年まで京都の大学の心理学部の大学院生であった由樹は
今年から聖龍(せいりゅう)学園大学の心理学部心理学科の助手兼、
スクールカウンセラーとして勤務することになり、京都から東京で上京することになった。
丁度駿河家の料理人が辞めたなどのタイミングが重なり、
母の妹の家である駿河家に幼馴染で料理人である三橋福(みつはしふく)と共に住むことになった。
「聖龍学園、デカイんやろ?あらかじめ下見しとかないと絶対に迷子なるわ」
聖龍学園は幼稚部から大学までの一貫教育を行う教育機関である。
品川区の埋立地に位置し、近隣からは聖龍区と呼ばれるほど広大な土地を持つ。
小等部から高等部までは男子部と女子部とそれぞれ校舎が分かれていて、
更に大学の学部数も日本で1、2を争うほど多い。
校舎の端から端まで移動するには車を使わないと一苦労と言うのは最早常識になっていた。
全国の御子息御令嬢が集まる学園としても有名で、
関東の資産家の子供の殆どが聖龍学園に通っていると言っても過言ではない程の通学率である。
全国にサロン・ド・スルガという美容室を展開する駿河家の長女と次女の遊唯(ゆい)と遊梨も例外ではなく、
二人共幼稚部から聖龍学園に通っていた。
二人共、美容師になるために聖龍学園大学芸術学部美容学科に進学している。
この学科は関東の4年制大学で唯一美容師免許が取れる学科だ。
遊唯は3年、遊梨は今年入学である。
「でも、私だってあんまり分からないよ。大学部、あまり行かないから。いーちゃんの方が大学部は詳しいよ」
朝食のサンドイッチを右手に持ったまま遊梨が言った。
何しろ広大な広さのキャンパスだ。
どんなに長く通っていたとしても自分に直接関係のない場所はあまり詳しくないのだろう。
「ええねん、今日は下見やから、何となく聖龍の敷地が分かればええねん」
「いーちゃんに頼めばよかったのに」
「いーは今日福とツーリングやろ?デートの邪魔はできません」
「私がデートだったらどうしたのさ」
「デートなん?」
「違うけど」
「せやろ?」
「・・・モテないわけじゃないんだけど」
由樹が笑いながらそう言えば、遊梨は拗ねたような表情を浮かべてサンドイッチを頬張った。
バイクが趣味の遊唯は同じくバイクが趣味の福と朝からツーリングに出掛けている。
ここにあるサンドイッチはツーリングに行く前に福が用意してくれていたものだ。
昨日、張り切ってバイクの手入れをしていた幼馴染を由樹は微笑ましく思って見ていた。
「リリィがモテるのは知ってます。彼氏いるん?」
「んー・・・居るとも言えるし居ないとも言えるかな」
「・・・そんな変な付き合いしているん?」
「んー・・・そういうわけじゃないけど・・・」
「変な男に引っかからないようにしなさい」
「別によっくんに言われたくない」
今年大学に入学し19歳になる遊梨ではあるが、
彼女は驚異的な童顔であり、パッと見ても高校生に見えるし、よく見ても大学生には見えない顔立ちである。
流石に中学生に間違われることは無くなったらしい。
彼女はそれがとてもコンプレックスらしく、そう言われるのをとても嫌がるが、由樹は彼女の顔が好きだった。
昔から彼女は彼にとって特別だったのだ。
毎年夏休みになると遊びに来る6歳下の彼女は彼にとっては紛れも無くお姫様だったのだ。
「何時頃行くの?」
「早ければ早いほどええかな」
「・・・そんな早く行ってどうするのよ」
「午後は出かけようと思って」
「デート?」
「うん、デート」
クラブハウスサンドイッチの最後の一欠片を口に放り込んでから頷けば、遊梨が眉を寄せた。
何が不満なのかと由樹が首を傾げれば遊梨は視線を逸らす。
ロイヤルミルクティーを飲みながら由樹は更に首を傾げた。
昔はそんなに嫌がらなかったのだ。
昔は夏休みに徳永家に来る度に由樹の後ろを付いて離れなかった遊梨が
傍に近づかなくなったのは彼女が高校に入ってからだ。
彼氏でも出来たのかと思うと同時にとても寂しさを覚えた。
由樹には亜里沙という妹がいるが彼女に彼氏が出来たと知った時にも感じなかったこの寂しさはなんなのか。
「デート前に大学見るの?」
「うん、ついでやしええかなと思って」
「ついで?」
「うん、ダメ?」
「私に聞かないでよ」
どうも話がズレている気がして由樹は眉を寄せた。
どうも彼女は他人事だと思っている気がしてならない。
クラブハウスサンドイッチを綺麗に食べ続けている彼女。
育ちがいいのは食べている姿を見れば分かる。
人間育ちは食べ方に出ると由樹は疑っていなかった。
実際今まで出会った育ちのいい人間は皆食事の仕方が綺麗だ。
もっともこの持論は料理人であり幼馴染の福の完全な受け売りなのだが。
「リリィに聞かなきゃ誰に聞くん?」
「彼女に聞こうよ、そういうのは」
「彼女?」
「・・・え?違うの?」
やっぱりどうやら間違えていたようである。
他の女とのデートの約束をしていると勘違いしていたらしい。
驚いたように顔を上げた遊梨に軽く首を振って否定の意思を見せれば
何度か瞬きをしてからロイヤルミルクティーのカップを口に運んだ。
駿河家の飲み物は紅茶が多いが、毎回ロイヤルミルクティーなわけではない。
茶葉によって変わるらしいが、紅茶にあまり詳しくない由樹は良く分からなかった。
「俺に彼女居るなんて誰に聞いたん?」
「いっぱい居るんじゃないの?」
「だから誰に聞いた?」
「福ちゃん」
「・・・あの野郎」
予想通りの名前が出てきた思わず溜息を吐いた。
本人に文句を言ったところで鼻で笑われながらやって事実やろと言われておしまいなのは目に見える。
確かに去年まで、否、先月まで彼の周りには不特定多数の彼女と言われてもおかしくない人間が居た。
元来女の子が好きというのもあるが、押しに弱い性格というのも彼女の増加に拍車をかけていた。
そして、顔はそこそこ見られる顔であると自負してもいた。
ただし、その彼女たちとは上京に合わせて全て関係を終わりにしてきたのだ。
「彼女は、今はおらんよ」
「・・・嘘だ」
「ホンマやって。東京来てまだ3日やで?彼女なんて出来ひんよ」
「京都にいっぱいいた彼女は?」
彼女というものを”いっぱいいた”と表現するのはおかしい気がするが全部別れたと首を振る。
別れたというよりも、来年から東京に行くと言ったら自然と離れていったのが大多数だった。
向こうも向こうで由樹のことを
「顔が良くて連れて歩ければ自慢できるアクセサリーのような男」という認識しかなかったのかもしれない。
「・・・そうなんだ」
「せやねん。遠距離も鬱陶しいしな」
「もうちょっと真面目に恋しなよ」
「そろそろ考えるわ」
6歳も年下の妹同然の女の子に説教されるのもどうなんだとロイヤルミルクティーを飲みながら思う。
確かに今まで真面目に恋愛したことはなかった。
女の子側の押しに負けて付き合うことになることが多かった。
本気で自分から好きになって告白するという経験が今のところない。
女の子は嫌いではない。
むしろ好きな方である。
それでも自分から積極的にアプローチをしたいという女の子は居なかった。
いつだって向こうから。
由樹が積極的に何かしてあげようとしたり、わがままを何でも聞くのは妹と遊唯とそして、目の前の遊梨しか居なかった。
「じゃあ、デートの相手は誰?」
「今誘ってんねんけど」
「・・・私?」
「他に誰がいんねん。午後暇?」
「まあ、暇だけど」
「じゃあ、決まりや。上野動物園行こうや。俺行ったことないねん。パンダ見たい」
彼女がようやくクラブハウスサンドイッチの最後の一欠片を口に入れた。
彼女の食事の速度は決して遅くはないが、由樹よりも大分ゆっくりである。
もちろん由樹は今まで彼女の食事を急かしたことはなかった。
そもそも、口の大きさも食べる量も全く違うのだ。
比べるだけ可哀想というものである。
「私じゃなくてもいくらでも居るでしょ?行く人」
「まだ東京来て3日で友達が出来るわけ無いやろ」
「そりゃそうだけど」
「ナンパするわけにもいかんしな。ええやん、ダメ?」
「ダメじゃないけど」
「リリィは行ったことあるん?上野動物園」
蒲田にある駿河家から上野までは1時間あれば着く距離なので当然行ったことあるだろうと思っていたら彼女は首を振った。
「行ったこと無いんだよね」
「ホンマ?」
「うん、なかなか機会なくて」
「まあ、そうか。俺等も清水寺なんて殆ど行かへんし」
清水寺は小学校の社会科見学でもしかしたら行ったことがあるかもしれないが、あまり記憶はなかった。
住人ほど観光地には行かないものかもしれない。
「じゃあ、良い機会やし、行こうや」
「行ってもいいけど」
「帰り、クレープ屋さんでクレープ買って食べよう」
「・・・うん」
「アイスとどっちがええ?」
「・・・・・・両方」
昔から彼女は甘い物に目が無かった。
甘い物なら際限なく食べられるというある意味才能の持ち主だった。
由樹も甘い物は好きな方であるが、彼女には全く敵わない。
彼女に言うことを聞かせるには甘い物を与えるのが一番手っ取り早い方法だった。
最たる例がアイスクリームである。
京都にある有名なアイスクリームショップ。
徳永家のすぐ近所にあるそのアイスクリームショップのアイスが遊梨はとても好きだった。
夏休みに駿河家が避暑を兼ねて徳永家に滞在することが多かったのだが、
徳永家滞在の最後の日に必ずそこでアイスクリームを食べる習慣がある。
そこでアイスクリームを食べてから京都駅に向かうのだ。
そうでもしないと遊梨が由樹と離れず、帰りたくないと駄々をこねるため。
ここのアイスクリームを食べたらバイバイというルールを子供の遊梨と由樹で作ったのだ。
ここのアイスクリームショップでアイスを食べるのは最終日のみ。
それ以外はどんなにねだられてもそこでアイスは食べないのだ。
アイスクリームというのはどうやら親にとっても都合が良かった。
あまりもたもた食べているとアイスクリームが溶けてしまう。
これを食べきったらさようならというのがとても良く分かりやすい食べ物だったのだろう。
もしかしたら彼女はあのアイスクリームショップのアイスクリームが嫌いになってしまったかもしれない。
もっとも、彼女が高校に入ってからは
由樹のことを何故か避けるようになったのでもうなんとも思っていないかもしれないが。
「両方?欲張りだなぁ」
「うるさいな」
「お腹壊さへんなら両方でもええけど。ちゃんとお昼ごはんも食べるんやで?」
子供扱いに不貞腐れたような表情を見せた遊梨を見てヤバイと思ったがもう遅い。
ついつい子供扱いしてしまうのは昔からよく知っているからだろう。
それこそ赤ちゃんの時から知っている。
抱っこもしたことがある。
よっくん、よっくん、と言いながら付いて来た時代をよく知っている。
私よっくんのお嫁さんになると言い張っていたのはいつの時か。
彼女が小学生の頃だったから10年ほど前かもしれない。
彼女はいつの間にか大学生。
月日が経つのは早い。
唇を尖らせている彼女の頭を撫でようかと思ったがその行為自体が既に子供扱いしているような気がして手を引っ込めた。
子供扱いをしているのは馬鹿にしているからではないのだが、やっぱり子供扱いをされるのは嬉しいものではないだろう。
自分がそうだったから。
彷徨った手を何気なしに煙草に伸ばし、一本取り出して火を点ける。
そういえば、いつの間にか遊唯が煙草を吸う様になっていた。
福が眉を寄せていたのが面白かった。
「それにしても・・・月日が経つのは早いな」
「よっくん、年寄り臭い」
「しゃあないやん。イーが煙草吸うなんて知らんで」
「あ・・・そっか。福ちゃん、嫌な顔してたね」
「俺が吸うのも嫌がるからな、あいつ」
代々徳永家の執事や料理人をこなす三橋家の次男、そして料理人である福は煙草を吸わない。
由樹が吸い始めた時も気に入らなそうな表情を浮かべていたし、実際に何度か忠告もされた。
最近は諦めたのかあまり言ってこなくなったがそれでも量を吸っていると止められる。
この状況を福が見たら、
未成年の前で煙草を吸うなんてとまた怒られるんだろうなと思っていたら、食器を持った遊梨が立ち上がった。
「・・・今から準備するから。1時間ぐらいかな・・・」
聖龍学園は広かった。
流石日本で一番敷地面積が広い教育機関と言われるだけある。
幼稚部から大学部まで歩こうとすればそれだけで結構なウォーキングになるのではないだろうか。
由樹は早々に幼稚部から中等部までの配置は覚えることを放棄した。
彼が活動するのは主に大学部、そして週一での勤務の男子高等部である。
「スクールカウンセラーだっけ」
「せやねん。勉強になるからって教授に押し付けられた。最初は助手だけの予定やったのにいつの間にか決まってた」
「ふーん」
聖龍学園大学の一番心理学部に近い駐車場に車を駐める。
由樹の愛車は京都から持ってきた黒のレンジローバーである。
免許を取ったお祝いに両親から貰った車だが、それはこれで大学に通えということでもあった。
結局6年間車で大学に通い続け、
そして何処に行くのも車で移動することが多かったので由樹の車の運転技術はなかなか高いと自分でも思っていた。
それでも元々エンジン物が好きな福には敵わないが。
「あっちが心理学部」
「芸術学部は?」
「その隣」
「おっ、近いやんけ」
まだ春休みなため、キャンバスには人が殆どいない。
もちろん校舎の中には入れないため、外から眺める形式になる。
中は元聖龍学園大学OBでもある、一緒に京都から赴任する教授が案内してくれるはずである。
・・・気が向けばの話だが。
とりあえず、初日はここに車を駐めて、校舎の中に入ればいいことが分かっただけでも前進だ。
案内されなければ、何処がどうなのか分からないままキャンパス内を彷徨わなければならなくなるところだった。
「やっぱりリリィ達にとっては聖龍は庭やな」
「そんなことないよ。大学とかちょっと良く分からないし。いーちゃんがいるから私はまだマシかな」
「一緒に行く友達居るん?ってエスカレーターやから殆ど一緒か」
由樹が呟けば遊梨がコクリと頷いた。
彼女の口から出てきた、三琴天使(みことあつか)という名前は彼女が幼稚部時代から一緒に遊んでいる友人の名前である。彼女は文学部に進学したらしい。
「あーちゃんね、声優デビューしたの」
「は!?ホンマか!?」
由樹も天使とは一度会ったことがあった。
三琴家は音楽一家で父親が指揮者、母親がヴァイオリニストで世界中を飛び回っている。
夏休みの間は両親が海外に二人を連れて行く事も多かったのだが、
一度だけ天使が駿河家と一緒に徳永家に滞在したことがある。
海外があまり好きではない天使の話を聞いた遊梨が誘ったのだ。
あれは確か、二人が中学2年の時。
類は友を呼ぶとはこの事かと思わせるほど、天使も童顔で可愛かった。
京都が初めてという天使は海外に行くのよりも楽しいととても徳永家の滞在を楽しんでくれた。
「よっくんと福ちゃんが家に来るって言ったらあーちゃんが会いたいって言っていたから、今度連れてくるね」
「うん。俺も会いたいわ。大きくなったんやろなぁ」
「可愛いよ」
「リリィがこんだけ可愛くなったんやから、あーちゃんも可愛いなったやろな」
「・・・いいよ、そういうのは」
「なんや、ホンマのことやんけ。で?あーちゃん、声優デビューしたの?確か劇団に所属しとったよな?」
「あ、そうそう。
それとはあまり関係ないらしいんだけどね。
劇団は高3で辞めちゃったし。先月オーディション受けたら受かってデビューしちゃったの。帝叶(ていか)と一緒に」
帝叶という名前は初耳だ。
眉を寄せて彼女を見るとああ、そうかと頷いた後、
高3の時にアメリカから編入してきたの、藤皇帝叶(とうおうていか)という子でとても賢いと説明してくれた。
藤皇という苗字で良く知っているのは藤皇千晃(ちあき)という名の弁護士だが、
彼は確か今28歳程であるから、流石に関係ないだろう。
もしかしたら親戚かもしれないが。
彼女は東京大学に今年から入学したらしい。
東京大学なら、由樹が昔から知っている友人、宇佐木楓都(うさぎふうと)の後輩ではないか。
確か彼は法学部の筈である。
全く大学に行っている気配はないが。
それでも最近は友人に促されて大学に行き始めたようではある。
ちなみに彼は由樹の2歳年下なので、今年23歳の筈である。
「月日が経つのは早いなぁ」
「だからよっくん、年寄り臭いって」
「・・・あかん、そんなこと言ってたらどんどん老けていく。昼飯食いに行こうか、何食べたい?」
「プリン」
それは昼飯の内容ではなく、デザートのリクエストだろうと突っ込むのは相変わらずで、少し由樹は楽しくなった。
何故、彼女が高校に入ってから急に由樹のことを避けるようになったのかは分からない。
分からないがそこまで嫌われているわけでもないようだ。
それならば。
彼女の隣に立つのは自分で無くてはならない。
それが恋心なのかは分からないが。