1.4月 1
「どないすんねん」
「書けへんって誤魔化すしかないやろ」
「頑張れば書けるけど」
「知っとるわ」
楓都のスペックの高さは翡翠が一番良く知っているつもりだった。
翡翠楓都の小説は物語の設定と展開だけを翡翠が決め、それを形にするのは全て楓都の仕事だった。
なので、翡翠は自分が作家だという自覚がいまいちなかった。
自分が考えた面白い話が小説になっている。
翡翠楓都の小説の一番のファンは翡翠だった。
「あんまり早く刊行すると味を占めてどんどん早くなるで」
「そしたら流石に死ぬな。翡翠の発想が尽きることは心配してないけど俺が間に合わん」
楓都が首を振った。
申し訳無さそうな表情を浮かべているが、彼の執筆ペースは異常だ。
彼は翡翠が設定と展開を決め、
登場人物の名前まで決めるのでそれに沿って文章を構成するだけだというのだが、その作業が通常は一仕事なのである。
翡翠楓都の平均刊行ペースは三ヶ月に一度。
鶴亀出版の小説部門では文句なしの一番速筆な作家だった。
執筆終了後のゲラ校正など、
翡翠が一番苦手とする分野の仕事も翡翠の姉、翠花と手分けしててきぱきと文句一つ言わず完璧にこなす。
彼が居なければ間違いなく小説は出来上がらない。
「ホンマはお前を会議に連れてくる予定やなかったんやけどな」
「ありがとう」
「来なけりゃよかったと思っとるやろ」
「翡翠もやろ?あんな時間泥棒はなかなかおらんで」
逆にあっぱれやと小さく楓都が笑った。
車の免許を取りそこねて免許を持っていない二人のためにタクシーが用意されていた。
二人はそのタクシーに乗り込んでからやっとまた大きな溜息を吐いた。
開放感が押し寄せてくる。
やっとつまらない空間から開放されたのだ。
普段は会議という名のものは殆ど翡翠が一人で参加する。
楓都の方が負担が大きいのでそのような雑用は翡翠が進んで処理をするようになったのはデビューしてすぐからだった。
「腹減らへん?」
「うん。だって夕飯食ってへん」
「え?そうやったっけ?」
「うん。ずっと会議やったやん。色んな」
「ああ、そう言われてみればそうやったな。つまらなすぎて忘れたわ」
記憶の奥底に仕舞っていた記憶が蘇ってきて一気に疲れが押し寄せてきた。
昨日からずっと出版社で文庫版のカバーの見本だの、
登場人物の名前だのの会議に呼び出され、時間はどんどん無くなっていったのだ。
時間泥棒と呼ばずになんと表現したらいいのだろう。ちょっと腹が立ってきた。
「何か買って帰る?」
「んー・・・疲れたからよくない?家になんかあるやろ。
無かったらちょっと寝て起きてから買いに行っても食いに行ってもデリバリーしてもええし」
大学進学と同時に作家デビューが決まった二人は一緒に暮らし始めた。
楓都が実家から出る必要があったためである。住んでいる家は鶴亀家が管理しているマンションの最上階。
二人で家を借りようとしていたら借り手が居ないからとりあえず住むように
と翡翠の父親に強制的に決められてしまったのだ。
「家に何かあったっけな」
「料理せえへんからな、二人共」
「お前、絶対するなや」
「せえへんから安心せえや。家を爆発させる趣味はないねん」
「お前、笑い事ちゃうからなぁ」
同じく料理をする習慣がない楓都はそれでもやらなければならなくなったら
何となくレシピを見ながらそれなりの物は出来るぐらいの器用さを持っていた。
翡翠は不器用を絵に描いたような人間だった。
初めて彼と出会ったのは高校1年の時だったが男でもできる楓都が素直に羨ましかった。
妬みは不思議と無かった。
彼が自分と同じ関西方面の方言を使うということも有り、親近感が湧いていた。
外部入学生の彼に何とか話しかけたのは始業式後、1週間が経った頃だった。
「冷蔵庫、何か入ってたか?」
「ビールならある」
「この時間からか。空きっ腹に酒なんか入れたら大変なことになんで」
「今春休みやしええんちゃう?」
「まあ、酔ってもええけど。何か食おうや」
「チーズとかしかないわ」
一人暮らしの男の家の冷蔵庫としか思えない冷蔵庫の中身である。
男の二人暮らしも似たようなものだということが残念ながら判明した。
とりあえずビールを二本とチーズを持っていく。
「早よ、彼女作らんとあかんで。お互い」
そう楓都が言い、二人でケラケラ笑い合う。二人共全くモテなくはなかった。二人共彼女が居た事はあるし、彼女が居ない最近は頻繁に遊ぶ女の子は何人か居る。女性を家には連れてこないというのは別に決めたわけではないが暗黙の了解となっていた。常識的に当たり前のことである。二人共、相手が喋るまで相手の恋愛沙汰には干渉しないという方針を取っていた。
「大学、いつからやねん」
「お前んとこは?」
「・・・知らん」
「俺も知らん」
大学生活と作家生活を両立しようと言っていたのは何時だっただろうか。
それを言っていたのは翡翠だけだった気がする。
東京大学の法学部に進学した楓都は合格しただけで満足していたのだ。
彼が東京大学法学部を受験した理由は両親に対する嫌がらせだったからである。
子供の頃から東京大学法学部に進学させるために英才教育を受けさせられてきた楓都。
彼は賢かった。
姉よりも賢かった。
両親は楓都に期待をした。
東京大学進学のため、家族で東京に引っ越し聖龍学園高等部に外部進学させた。
名家宇佐木家、そして国内最大手での出版会社、宇佐木書店を継がせるためだった。
ずっと両親が敷いたレールの上を素直に歩いてきた楓都が初めて反抗したのは大学進学直後だった。
周りからは駆け落ちに近いとからかわれた。
「まあ、駆け落ちやけどな」
「なんや突然、気持ち悪い」
「いや、俺等の作家デビュー、駆け落ちみたいなもんやないか」
作家デビューに当たって、宇佐木書店でデビューするのか、鶴亀出版でデビューするのかが大きな問題だった。
そして、楓都の父親は楓都の作家デビューをとても嫌がった。
彼は大学卒業後は弁護士になることを要求していた。
そして、彼は翡翠が大嫌いだった。
最大のライバルである鶴亀出版の御曹司である翡翠と楓都が仲良しなのが気に入らなかったのだ。
「なんで、おっちゃんは俺のことあんなに嫌いなんやろ」
「アホやからや。頭が硬いねん」
「まあ、由緒正しい家柄の宇佐木家が突然湧いて出てきて、事業を脅かすかもしれない鶴亀が嫌いなのは分かるけどな」
「あんな考え方ならその内潰れる」
世間では安定企業と呼ばれている宇佐木書店は大昔から日本にある歴史ある出版会社だった。
一方鶴亀出版はここ20年以内に出来上がった新参者の企業である。
その代わり色んな事に積極的にチャレンジし、いい物は取り入れていく。
楓都の作家デビューを受け入れたのも家柄などは関係なかった。
「潰れるなら潰れればええ」
楓都がこんなに家の事が嫌いだとは出会った頃は全く気づかなかった。
家のことを第一に考えている由緒正しき家のお坊ちゃまだと思っていたのだ。
別に彼が宇佐木書店の御曹司だから翡翠は彼に近づいたわけではない。
考え方や話の面白さや、
出身が同じというところに惹かれたのだが、1年ほど経ってから彼が家に対して不満を持っていることを知ったのだった。
「正直、お前はどんだけ単位取れてんねん」
「全然」
「やろうな。大学行っている所見たこと無いもん」
「お前やってそうやろ」
楓都に眉を寄せて翡翠が突っ込めば彼は苦笑いを浮かべた。
東京大学合格が決まって楓都よりも喜んでいた当時の担任に聞かせてやりたいところである。
もっとも彼は、
自分の功績として楓都の東京大学合格が大事なのであってその後楓都がどうしているかには興味が無いのかもしれないが。
楓都は既にビールの缶を3本開けていた。
翡翠は楓都程酒は強くなく、1本目だった。
寝ていないのもあって、軽く酔いが回り、頬は赤くなっているのが自分で分かる。
「卒業はしとけや。もったいない」
「結構真面目に通わんと卒業出来んかも」
「なら通え」
「仕事あるやん」
「少しセーブしてもええで」
「今日の会議でもっとペース上げろ言われたのに?」
楓都がケラケラと笑った。
彼は結構酒が強い。
このペースに付き合っていれば潰されることが分かっている翡翠は一旦飲むのを止めて煙草をくわえて火をつけた。
翡翠の行動を見て思い出したように楓都もタバコを取り出す。
翡翠と楓都の煙草の銘柄は同じものである。
その為、翡翠の煙草を楓都が拝借することもその逆もよくあった。
同じ銘柄なのは一緒に煙草を吸い始めたからである。
煙草を彼等に教えてくれた先輩が吸っていた煙草だった。
初めて吸った煙草だったこともあり、他のどの煙草を吸ってもやっぱりこれに戻ってしまうのだった。
翡翠が煙草の煙を吐き出すのと同時に楓都も煙を吐き出して、二人の吐いた煙が交錯した。
室内が一瞬煙くなる。
「来週締切の原稿はできとるんか」
「できてないと思うか?」
「一度ぐらい編集者に缶詰にされる気分を味わいたいもんやな」
翡翠の予想通り、既にそのまた先の締切分までの原稿は出来上がっていた。
「締切に追われるのは嫌いでな」
「お前らしいよな」
彼はきっと子供の頃の夏休みの宿題も早めに終わらせてしまうタイプだったのだろうと簡単に想像できた。
かくいう翡翠も計画的に嫌なことは早めに終わらせてしまうタイプである。
昔から夏休みの宿題は初日かその次の日に必死に終わらせてしまい、二学期初日にすっかり内容を忘れているタイプである。やっていないよりかはマシとは思っているが、親には計画的にやれとよく叱られていた。
性格だから仕方ない。
「締切どうりに渡さへんとお前の姉ちゃんは怖いやろ」
「あ、そうやった」
「缶詰になりたいですって正直に言えば?」
楓都に甘い翠花は恐らく締切を楓都が飛ばしても楓都には文句一つ言わないだろう。
ねぎらいの言葉すらかけるかもしれない。
そのとばっちりを受けるのは間違いなく翡翠である。
これは疑いようがない。
どうも彼女は実弟である翡翠はただ楓都のおこぼれを貰っている愚弟だと思っているらしい。
これは何度も楓都が否定してくれているが、多分一生この扱いの差はなくならないだろう。
これが血が繋がっているということなのだと納得することにしていた。
昔から気の強い姉には押さえられ続けてきたが、作家と担当編集者という関係になってからは更に押されている。
弟というのは姉には叶わないものであると翡翠が悟ったのは中学生の時だった。
同じく姉がいる楓都にその旨を告げた所、彼は少し首を傾げて大変やなぁと笑った。
楓都は姉とは少し歳が離れていて、彼が高校に進学した時には大学を卒業して、結婚をし、家を出ていた。
翡翠と翠花の4歳差というのが一番やっかいなところなのかもしれない。
それと姉の性格にもよるところだろうか。
「きっと今日の会議に参加させたことも後で怒られるんや」
「なんでやねん」
楓都は笑っているが決して笑い事ではない。
翡翠は小さな小さな溜息を吐いた。
雑用係は翡翠がやればいいと思っている姉は楓都が厄介事に巻き込まれるのを嫌がる。
今日は事情で会議に出ていなかったが、楓都も出ていたと聞いたら烈火のごとく怒るに違いない。
挙句の果てには楓都が大学を卒業できないのは翡翠のせいだということになるのである。
実の弟よりも可愛いがっているのはいいことだが、
恋愛沙汰にまで口を出してくるのはちょっと楓都が可哀想だと思わなくもなかった。
まあ、姑よろしくあいつと別れろと小うるさく言うのではなく、あくまでも応援という形でアドバイスをしているのだが。
弟に全く無関心というのも悲しいところである。
慣れていたが。
「今年の目標!大学に通う!そして、可愛いお姉ちゃんと出会う!」
「むちゃくちゃ不純やな、動機」