4月 1
かなり早く目が覚めた高瀬義巳(たかせよしみ)はベッドから起き上がった。
二度寝を試みようとしたが上手く行かなかったのでいっそのこと起きることにしたのである。
ホテルの部屋に備え付けてあったデスクの前の椅子に座って手持ち無沙汰にスマートフォンを弄る。
まだ朝が早いからか、SNSに動きはあまりなかった。
もちろん仲間たちもまだ起きては居ないようである。
いつ何処ででも寝られるというのも遠征が多い野球選手には大切な能力だと先輩からは言われるが、
昔から義巳には苦手な事だった。
どうもホテルだと寝付きがよろしくない。
チームが連敗中というのも寝付きが悪い大きな原因だった。
「ちゃんと寝ないとマズイんだけどな」
「コーチに発見されたら怒られるし・・・」
「早朝ランニングでもするかな・・・」
「でもな・・・6連戦の2日目だからな・・・」
部屋が無音なのが寂しくて思わず独り言を呟いた。
もちろんそれに反応を見せる者はいない。
小さく溜息を吐いてから義巳はデスクに頬杖を付いた。
目を瞑って昨日の試合のハイライトを再生する。
昨晩何度もした反省会。
何度再生しても昨晩の同じ反省結果になることを確認してから目を開けた。
ドラフト1位ルーキーにして、開幕一軍、スターティングメンバー。
昨季のライトのレギュラーだった選手が怪我をしたため棚ボタ式に回ってきたチャンスだったが、
何とか物にできていると言えるのではないか。
「天才スラッガー、高瀬義巳は東京ラビッツが交渉権を獲得しました」
「良かったな、高瀬。東京だぞ、引っ越ししなくても大丈夫だ」
「・・・・・・そうですね」
「すぐに記者会見の準備しろ」
地元、
そして球団の中でも1,2位を争う人気球団である
東京ラビッツに指名されたことは義巳よりも周りが喜んだ。
特に大学時代の監督の喜びようは半端ではなかった。
義巳はあまり実感が湧かず、
それよりも親交が厚かった古都泉(ふるいちいずみ)と井坂弘樹(いさかひろき)の去就が気になっていた。
泉が1位指名されないわけがないとは思っていたものの、
出来ることなら同じ球団へという淡い祈りは簡単に打ち砕かれた。
東京ラビッツと人気を二分するライバル球団、中部クレインズに1位指名されたのだ。
「指名して頂けて、大変光栄です」
監督が用意した台本をただ読むだけだった指名後の記者会見。
ズラリと並んだ報道陣に見られるのがとても恥ずかしかった。
元々人前に出るのは得意な方ではなかった。
高校の時はそれほど目立たず過ごしてきた。
大学に入って大学野球で1年目から打点王を取ってから
それなりにメディアには追われるようになったが同世代にはどうやったって目立ちまくる泉が居た。
おかげでそこまで追い掛け回されることにはならなかった。
監督は歳が違えば目立ちまくる筈の義巳があまり目立たないことが不満だったようだったが、
義巳はそれに全く不満を持つどころか、泉に対して同情さえ抱いていた。
全日本大学選抜合宿で一緒のチームになってからは余計に同情心が強くなった。
幼い頃からずっと目立ち続けている目立ちたくないが全てを諦めて受け入れている泉。
それを見るのが辛かった。
「プロに入ったら対戦したい選手は?」
「中部クレインズに指名された古都君です。
大学時代全く打てなかったので、是非プロの世界でリベンジしたいです」
「東京ラビッツの印象は?」
こう尋ねられて悪いと答える人間は居ないんじゃないだろうかと思いながら、
丸暗記した質疑応答例から答えを思い出して答える。
全て監督が用意した物だ。
失言はしてはいけない。
マスコミは敵だというのは泉から教えこまれた事だ。
泉に群がるマスコミを見ていると決してそれは間違いではないのではないかと思ってしまう。
多分同時刻に聖龍学園大学では泉と弘樹が並んで記者会見を行っているのだろう。
自分みたいな硬い表情ではなく、
にこやかに笑みを浮かべてマスコミ対応をしている泉の姿が簡単に思い浮かんだ。
あの満面の笑みはマスコミには概ね好評ではあるが、義巳は大嫌いだった。
愛想笑いなのが手に取るように分かる微笑みだからである。
実際寮に帰ってから同級生に見せてもらった泉と弘樹の記者会見では
緊張で硬い表情を浮かべている弘樹と満面の笑みの泉という、
あまりにも予想通り過ぎる光景に吹き出してしまったのを思い出して思わず微笑んだ。
「あいつは今日、軽井沢か・・・」
「早く東京来ねぇかな・・・」
「っていうか、早く一軍来ねぇかな、全く・・・」
「・・・今電話したら怒られるよな・・・」
「弘樹は起きてるかな・・・」
「・・・流石にまだ寝ているか・・・」
静寂に耐えられずに独り言が多くなるのは一人の時の義巳の癖だった。
時計を見ればまだ4時30分である。
早朝ランニングをするにもまだ早い時間でこんなに早い時間に起きているのを知られれば
コーチから睡眠不足を注意されるかもしれない。
スマートフォンを弄りながら先程思い浮かべた当人に電話をしてみようとして諦める。
泉はとても寝起きが悪い。
こんな時間に起きているわけがないのだ。
彼が軽井沢の寮に引っ越してから急に声を聞きたくなったり、
会いたくなったりし始めるのは、人間が我儘であることの証明なのかもしれない。
「ったく、あいつは・・・人に誕生日おめでとうの挨拶もしやしない・・・」
「後・・・初ホームランおめでとうとか、デッドボール大丈夫かぐらい言ってくれてもいいだろう」
自分で言っていて乙女な発言だなと思い、窓の外を見ながら思わず苦笑いを浮かべた。
「起きたか?」
「・・・俺、モーニングコール頼んだっけ?」
「特に頼まれていないな。でもありがたいだろ?」
そろそろ起床するだろう時間に泉に電話をした。
二軍戦で昨日先発したらしい彼は今日は休養日の筈である。
朝にとても弱い泉のことだから不機嫌丸出しの声を出すのだろうという
想像通りの不機嫌声で義巳は思わず吹き出した。
更に不機嫌そうに文句を言う泉に言い訳をする。
優しい泉はそこまで怒ることはないだろうというこれまた予想通り、
不機嫌そうな声のままではあるが要件を聞いてきた。
「何の用だよ」
「別に用はないんだよ」
「お前暇なのか?」
「まあな」
いつから起きているんだという問いは笑って誤魔化す。
正直なことを言えば心配されるに決まっているのだ。
泉は義巳の環境が変わってしまうと寝られなく体質のことをよく知っている。
だから泉の実家にはいつ義巳が泊まっても良いように専用の枕が置いてあるのだ。
不思議と枕が変わらないと寝られるものである。
遠征に枕を持ち歩こうかと半ば本気で考えているのだが、
大荷物になることが簡単に予想が付き、
新人である自分がそんな大荷物を遠征の度に運ぶのでは先輩がいい顔をしないだろうと思い止めている。
早く慣れたいとは思うものの、
生まれてから今までダメだったのだからもうダメなのではないだろうかと少し諦めつつあった。
何処でも眠れる才能が欲しい。
義巳が笑って誤魔化したのが気に入らなかったのか不満そうに文句を言った後、
ちゃんと寝たかと親のような心配をしてくるのも最早いつものやり取りといっても過言ではなかった。
大学時代の遠征の時もこうやって義巳が電話をする度に、
ちゃんと寝ているか、大丈夫かと心配するのだ。
泉と弘樹は。
寝られないとすぐに泉と弘樹に電話をする義巳の行動がワンパターンだというのもあるだろうが。
「今日もスタメン?」
「言えるわけねぇだろ」
「そりゃそうか。あ、誕生日おめでとう」
取ってつけたような誕生日の挨拶に少し不満を隠せない。
しかももう3日過ぎているし。
雰囲気で義巳の機嫌を察したらしい泉は色々忙しくて挨拶できなかったと言い訳をした。
忙しくてもメールの一通ぐらい送れるだろうと
まるで子供か女の子のような発想をしながら泉の謝罪の言葉を耳に入れる。
その光景は恋人同士の様だ。
そう、実際、ほんの4ヶ月程前まで恋人同士だったのだ。
生まれつき、泉はゲイセクシャルで、男性にしか恋愛対象として興味を持たなかったらしい。
バイセクシャルの義巳と恋人関係になったのは2年ほど前。
「あんまり頻繁に連絡取るのもどうかなって思ってさ。敵同士だし」
「そうだけどさ」
「開幕一軍おめでとうは、この前言ったよな。一打席目初ヒット初ホームランおめでとう」
「ありがとう」
「初デッドボールもおめでとう」
それは全くめでたくねぇよと心の中で思う。
初めて足に当たったデッドボールは
大学時代に当てられたデッドボールとは比べ物にならないほど痛かった。
これがプロのボールかと再認識したほどである。
まだ右足の太腿にはボールの形の痣がくっきりと残っていた。
「姫が心配してたから病院行けよ?せっかく東京なんだから」
彼の口から出た姫という言葉はファルコン記念病院スポーツ整形外科に所属する
外科医の白鳥雪姫(しらとりゆき)のことを指している。
5年前の飛行機事故の後から古都家に住んでいる雪姫を
泉と古都家に下宿中だった弘樹は妹のように可愛がっていた。
実の妹でもここまで可愛がらないと思うレベルである。
アメリカで7歳で医師免許を取った彼女は13歳から日本で医者として勤務している、
紛れも無い天才少女。
スポーツ医学だけではなく、脳外科、心臓外科など、大体の外科手術は平均以上の腕を持つ天才医師。
「うちにはうちでチームドクターがいるんだよ」
「うちにもいるけどさ、姫や鷹さんやグース君の方が優秀だよな」
「そんなこと言って大丈夫なのかよ」
「寮だから大丈夫。それに俺は本当になんかあったら東京まで行くよ」
「お前と弘はそうだろうな」
学生時代から優秀な医者に囲まれていたのだ。
雪姫の上司であり、弘樹の叔父である井坂鷹秋(たかあき)も医療界では優秀だと評判が高い。
子供の頃から身近に何でも相談でき、優秀な医者がいれば、彼に頼ってしまうのは不思議ではない。
信頼度も高いのは当たり前だ。
特にマスコミに追い掛け回されることが多い泉なんかは。
「お前だってグースくんがいるだろう」
「あいつには診てもらわない」
「なんでだよ」
泉と弘樹と義巳の付き合いは大学時代からである。
義巳には双子の弟がいる。
彼は医者として去年から白鳥雪姫の指導を受けている。
一昨年までアメリカで訓練を積み、医師免許を取って帰ってきたのだ。
「で、グースくんには言ったのか?」
義巳は嫌な予感がして眉を寄せた。
もちろん電話の相手である泉には義巳の表情は見えないはずである。
泉が何を言い出すのかは予想できた。
そして義巳はその質問の答えを答えたくはなかった。
雁夜(かりや)は義巳と泉の関係を詳しく知っている数少ない人間である。
彼等が恋人同士だったことは本当に数人しか知らないのだ。
義巳の実の両親も知らないはずである。
そもそも彼等は義巳がバイセクシャルであることも知らないはずであった。
何度か彼女を家に連れてきたこともあるので、
今は野球に専念していて恋愛には興味ないのだと思っているはずである。
「俺等が別れたこと」
「・・・それか・・・」
「やっぱり言ってないな」
答えを濁せば電話口から苦笑いが聞こえてきた。
彼等が別れた理由は決して喧嘩別れとかではない。
泉が中部クレインズ、
義巳が東京ラビッツに入団が決まってから、お互いマスコミに追い掛け回されることが増えた。
特に泉はただでさえ居たものが倍増したのだ。
これからという時に泉と義巳の関係がバレるのはマズイ。
彼等の関係は世間の人がみんな諸手を上げて祝福してくれる関係では決して無いのだ。
嫌悪感を感じる人も少なからずいるだろう。
これ以上付き合い続けているといつマスコミに関係がバレるか分からない。
そのため、一旦関係を解消しようと言い出したのは泉の方だった。
超絶寂しがり屋である泉の口からその言葉が出た時は、思わず口を開けたまま固まってしまったのだ。
「一応言っとけ?応援してくれてたんだから」
「うん・・・」
「義巳?」
義巳は急に告げられたその提案に当然素直に頷くことが出来なかった。
1時間ほど泉に説得されてようやく納得いかないまでも頷いたのだ。
泉はマスコミの怖さを今まで直に触れていて嫌になるほど分かっている。
今は一旦離れるべきだ。
泉がそういうのならそれが正解なのだろう。
しかし義巳の感情はあまり付いていっていなかった。
義巳がここまでゴネるのは珍しく、久しぶりに泉の心底困った顔を見た気がした。
「俺が言おうか?」
「いや、俺が言うよ」
「大丈夫か?」
「なあ、いつまでなんだ?」
「とりあえず、事が落ち着くまで。マスコミが飽きるまでかな」
それが何時になるのかは誰にも分からなかった。
「あのさ、俺だってお前のことが嫌いなわけじゃないんだよ」
「分かってる」
「分かってるならいい」
「・・・一緒に飯食うぐらいならいいだろ?」
「どうだろうな。それは球団の判断じゃね?」
敵同士だしな、俺等。
しかも同一リーグの。
と泉が続けるのを聞いて思わず大きな溜息を吐いた。
全然寝られない理由がはっきりと分かった。
いや、今まで薄々気付いていたのだが、気付かないふりをしていたのだ。
そう、自分が泉に捨てられるのが怖いのだ。
気が付いたら泉に新しい恋人が出来ているんじゃないかと想像するだけで怖いのだ。
いつの間にこんなに自分は彼に依存するようになってしまったのか。
電話の向こう側から聞こえてくる声が心配そうに義巳の名を呼んだ。