4月 2

「雪姫ちゃん、朝飯なんだけど」 「ありがとう」 「もう少しでできるから泉を呼んできてくれると嬉しいな。雪姫ちゃんなら流石に怒らないだろう」 分かったという了承の言葉を聞いて弘樹は雪姫の部屋のドアの前から離れ、キッチンへと戻った。 昨日の朝一で軽井沢へやってきた雪姫は、 今日小諸球場で行われる中部クレインズ二軍戦の試合を見てから東京に帰る予定だ。 中部クレインズの軽鶴寮に住んでいる泉と弘樹は 昨日から寮に外泊届けを出してこの古都家の別荘に泊まっていた。 ここに古都家の別荘があるのは偶々だが、知り合いが試合を見に来た時にはとても便利である。 「おはよ・・・」 「シャキッとしろよ。今日先発だろ?」 「朝弱いもん」 明らかに眠そうな表情を浮かべた泉が雪姫と一緒に顔を出した。 「ありがとう。俺だったら一発殴られていた」 少し大袈裟に雪姫へお礼を言えば彼女が笑いながらそんなことはないと言う。 雪姫と弘樹が初めて会ったのは弘樹が17歳の時、雪姫は13歳の時だ。 今から5年前。 飛行機が落ちてから一週間後に同じ飛行機に乗るはずだったが急患対応の為、 乗り遅れた叔父の鷹秋と雪姫が日本へやってきたのだ。 彼と彼女が飛行機に乗り遅れたのは両親達を失った弘樹達には不幸中の幸いで、 空港まで泉の兄である拓馬(たくま)とその妻で弘樹の実姉である美咲(みさき)が迎えに行った。 彼女達が家に連れて帰ってきたのが自分にそっくり過ぎる鷹秋と雪姫だった。 「泉くん、今日初先発だね」 雪姫がトーストを一口齧ってから言う。 甘党の雪姫のトーストにはメープルシロップがたっぷりと塗られていた。 弘樹も負けず劣らず甘党で泉も甘い物は結構イケる方である。 姉の美咲も鷹秋も両親も甘い物は好きだったので、井坂家は基本的に甘党のようだ。 弘樹もトーストにメープルシロップを丁寧に塗っていれば、泉がそれを見て小さく微笑んだ。 彼はトーストには甘い物を塗らずバターのみのタイプである。 「初先発を姫に見てもらえて嬉しいよ」 「情けない投球するなよ」 「エラーするなよ」 「頑張るよ」 「っていうか打てよ?」 「努力する」 二軍戦ではあるが本日先発予定の泉は小さく微笑みながらコーヒーを飲んだ。 雪姫の皿と弘樹の皿にはベーコンエッグが乗っているが泉の皿には目玉焼きしか乗っていない。 これは弘樹の悪戯ではなく、泉が肉類が一切食べられないこと為だ。 昔は食べられたのだが、5年前の飛行機事故以降、一切肉を食べなくなった。 「今日の小諸球場、満席らしいよ」 「二軍戦なのにね」 「ま、俺、集客力あるから」 自嘲気味に笑いながら言った泉の言葉は決して自慢ではない。 隔世遺伝らしいアッシュブラウンの髪とダークグレーの瞳。 誰もが認める整った顔。 そして、大富豪とくれば目立たないわけがない。 弘樹と泉は幼稚部の頃からの付き合いだが、彼は昔からとても目立った。 本人が意図しなくても。 挙句の果てに泉に良く似た2番目の兄、 古都飛鳥(ふるいちあすか)がシンガソングライターとしてデビューしてからは 更に同じ髪の色と眼の色を持つ弟は注目を集めた。 5年前の飛行機事故の時も、 3年前のバイク事故の時も、いつもマスコミに追いかけられるのは泉だった。 長男の拓馬は黒髪、 黒目で、マスコミが追いかけるにしては少しインパクトが足りなかったからかもしれない。 泉が甲子園に出るぐらいのピッチャーであるというのも大きかっただろう。 「試合前に中部テレビの取材も受けないといけないしさ」 「そんなのあるのかよ」 「お前も受けるんだよ」 「は!?聞いてねぇぞ!?」 自分は臆病者なのではないかと時に思うことがある。 特に雪姫を見ていると。 この関係を壊さないためにあと一歩踏み出すことができない臆病者。 球団命令で受けなければならなくなった取材に 「弘樹が一緒ならば」と条件を押し付けた泉と取材を受けに行くために 準備をしながら弘樹は自室と昨日決めた部屋で溜息を吐いた。 雪姫はどうやら論文を書く宿題を鷹秋から押し付けられたらしく、 自分は休みじゃないからって人に押し付けるのはおかしいよね。 給料もらっていないのにとぶつぶつ文句を言っていた。 しかし、彼女はどうやら書いているらしい。 「試合見たらそのまま帰るんだよな?」 「うん、明日も仕事だし」 「球場から駅まで大丈夫か?」 「佐久平駅までタクシーに乗って行けって泉くんがうるさいんだよ。 私は小諸駅から佐久平駅まで電車で行こうと思ったのに」 一軍戦は軽井沢駅から近い軽井沢ドームで行われるのだが、 二軍戦はそこから車で30分程走ったところに位置する小諸球場で行われる。 最寄り駅の小諸駅は新幹線は止まらなく、電車の本数もそれほど多くない駅だ。 行きは泉と弘樹と一緒に球場に向かう予定だが、帰りはそういうわけにもいかない。 泉は少々雪姫に対して過保護な気があるが、弘樹もそれに対しては負けていない自信があった。 「タクシーにしなさい」 「えー!!弘くんもそういうの!?」 「だよな。お金ないなら俺が払うから」 「そういう問題じゃないよ」 新幹線の時間を見れば、充分余裕はあった。 出来ることなら弘樹か泉が佐久平駅まで送り、 新幹線の改札口の前まで連れていってあげたいところではあるが、 泉は今日先発登板であるし、弘樹はスターティングメンバーだと聞いている。 試合終了後はマッサージやらミーティングやらで1時間や2時間は掛かるだろう。 雪姫を駅まで送ることはできない。 雪姫も学会やらなんやらで電車や新幹線は乗り慣れているが、 もしも怪しい人間に声を掛けれらたりしたら・・・。 そう考えると結局、泉も弘樹も首を振るしかなかった。 少し抵抗していた雪姫も経験上これ以上言っても無駄だと悟ったのか、 泉と弘樹の意見を採用する。 小諸駅周辺の地理に詳しくないというのも理由だろう。 「7回ぐらいになったらタクシー呼んで、球場近くにつけといて貰いなさい」 更に上の過保護ぶりを見せる泉。 今日は古都泉のプロ初登板ということも有り、取材陣で球場周辺は賑わうことが予想できた。 一軍戦が行われる軽井沢ドームの周辺ならまだしも、 普段なかなか混雑することのない小諸球場では対応が遅れるのは目に見えている。 泉の妹同然である雪姫に取材陣が殺到する可能性も考えられるのだ。 「くれぐれも球場では気をつけて」 「泉くんがバックネット裏のチケット取ってくれたから大丈夫だよ。 自分でチケット取ろうと思ったのに」 「変な奴に絡まれたら困るだろ」 「私が来るってみんな知らないし大丈夫だよ」 「姫の顔は結構知れ渡っているんだぞ?」 医療界の天才、そして悲劇の天才としてメディアに取り上げられたのは5年前。 当時は13歳だったのでもちろん成長して顔つきは変わっている。 綺麗な方に。 彼女が古都家で泉と共に生活していたのはマスコミなら周知の事実だろう。 もし万が一何処かしらで発見されたとしたら。 取り囲まれて根掘り葉掘り聞かれるだろうことは想像に難くない。 そうなった時に助けに行くことができないのだ。 「頼むから兄ちゃん達の言うことをちゃんと聞いてくれ。気をつけてくれよ?」 マスコミに散々追い掛け回されている泉の懇願に雪姫がコクリと頷いた。 「じゃあ、行ってくるから。取材終わったら一度戻ってくる。で、昼飯食いに行こう」 一応スーツ着用で玄関で見送ってくれている雪姫に挨拶をしてから弘樹と泉は別荘を出た。 向かう先は軽井沢ドーム。 二軍戦初先発の意気込みを取材したいというのなら練習前の小諸球場でもいいと思うのだが、 取材陣の都合なのは簡単に想像がついた。 向こうの言い分は寮は軽井沢にあるのだからという事だろう。 「何聞くんだかねぇ・・・。意気込みなんてないぞ、俺」 いつも運転は泉がするのだが今日は先発を控えている為、弘樹が志願した。 運転好きの泉は不満そうな表情を浮かべたが文句は言わずに渋々助手席に乗り込んだ。 エンジンを掛けたところで大きな溜息とともに泉の口から出た言葉に弘樹は思わず笑いを零した。 昔からこの男のこういうところは変わらない。 そもそも野球を好きでやっているわけではなかった。 弘樹の誘いに乗ってやり始めただけ。 そして弘樹の約束を果たすためにやり続けているだけなのだ。 それは少し申し訳なくも有り、また自分よりも大分恵まれた身体と才能を持つ泉が羨ましくもあった。 「適当なことを言うのはお前の特技だろう」 「特技じゃねぇ。生きるための知恵だ」 「仕方ねぇだろ、拓馬さんを見習え」 「ああ、兄貴は素直に尊敬するよ。素晴らしい経営者だ」 「拓馬さんは拓馬さんで、泉ばかり目立って申し訳ないって言ってたけどな」 古都家三兄弟は長男だけ黒髪黒目である。 次男である飛鳥と三男の泉はアッシュブラウンの髪とダークグレーの瞳を持って生まれた。 血筋的に外国の血筋は入っていないが、祖父からの隔世遺伝らしい。 劣性遺伝が三兄弟中二人に遺伝するのは珍しい事だったらしいが、 その御蔭で彼は幼稚部の頃はいじめにあっていたらしい。 子供たちの中では人と違う見た目を持つ泉は紛れも無い『悪』だったのだ。 家が大変な資産家で親達も気を遣うというのも大きな理由。 弘樹が聖龍学園幼稚部へ転入するまで泉には友達といえる人が居なかったらしい。 「ま、目立つのは慣れたけどな」 「どんな質問されるんだろうな」 「馬鹿な質問だろう。 マスコミがする質問なんてみんな馬鹿げた質問だ。ファンはそんなの聞きたいのかな?」 いつ何時もポーカーフェイスだの、 笑顔を絶やさない、 マスコミに対して友好的などマスコミからは言われているが彼は喜怒哀楽の感情の差が結構激しいし、 マスコミは大嫌いだ。 泉が感情を表に出さなくなったのは5年前の飛行機事故、 そして3年前のバイク事故からで、特に『怒』の感情を出すことがない。 本当の泉は毒舌で、とても怒りっぽいし、笑うし、泣く。 それを知っている人間は数えるほどしか居ない。 「マスコミなんか無くなっちゃえばいいのに」 「おい、マスコミが親会社の球団に所属する人間が言う台詞か?」 「大丈夫、言わないから」 「当たり前だろう」 「でも、中部テレビの親会社の鶴亀(つるかめ)出版の人に言っても怒られないぞ」 「それは、翡翠(ひすい)の話だろう」 小等部から大学部まで同級生だった共通の友人のことを言っているのはすぐに分かった。 プロ野球球団中部クレインズを持つ親会社は中部地方をメインにネットワークする地方テレビ局である。 更にその親会社は東京に本社を構える出版業界の双角の片方、鶴亀出版。 同級生の鶴亀翡翠(つるかめひすい)は社長の息子だった。 「どうせ、対戦したい相手は?とか聞かれるに決まっているんだ、考えとけよ」 「俺は簡単じゃん、高瀬義巳って答えておけば問題ない。問題はお前」 「俺に殆ど質問は来ねぇだろ。お前のおまけだぞ?」 中部クレインズに入団が決まってから色んなメディアが取材を受けにやってきた。 同大学から同球団に入団が決まった泉と弘樹は泉や大学の意向もあり、 一緒に取材を受けることが多かった。 しかし、メディアの目的は殆どが泉である。 誰もが女性の目を引く顔立ちを持つ 聖龍学園大学の悲劇の貴公子エースと呼ばれる古都泉の取材をしたいのだ。 泉に比べれば身長も高くなく、 顔立ちもそこまで際立っていない弘樹が後回しされたり、オマケ扱いされるのは半ば当然の結末だった。 これはメディアが泉に興味を持ち始めた中学ぐらいからだったので弘樹はすっかり慣れていた。 「目標とか聞かれるぞ」 「ねえよ」 「そういうわけにはいかねぇだろ」 車を球団地下駐車場に駐める。 東京都に本拠地を持つ東京ラビッツでは新入団選手が車通勤をするのを禁止されているらしいが、 車以外の交通手段が乏しい軽井沢では車通勤が普通だった。 契約の際に運転免許の有無を聞かれた程である。 二人共大学一年制の時に免許は取っていた。 「何て答えたら無難?」 「10勝するとか答えておけばいいんじゃね?」 「ふーん」 「興味無さそうだな」 「あまり興味ねえもん」 「・・・お前はそうだよな」 昔からあまり欲がない男だった。 生まれた時から金には困ったことがない。 欲しい物は何でもすぐに手に入る。 ただ、彼がいつも傍に居て欲しい人間は見事にどんどん消えていく。 その為か、泉は殆ど欲を見せなくなった。 ただ、超が付くほどの寂しがり屋である泉は、終始弘樹の傍に居た。 聖龍学園大学に来るスカウトに 半分冗談半分本心で述べていた要望は弘樹も一緒に指名することだった。 実際に彼は弘樹と同じ球団でなければ入団を決めなかっただろう。 「金とかも興味ねえし」 「殺されるぞ」 プロ野球選手はスポーツ選手の中でもかなり高給取りと呼ばれる立場である。 活躍すれば億を毎年稼ぐ選手も少なくない。 しかし、相変わらず泉はそんなことに興味はなかった。 「たかが一億ぐらいで俺が揉めてたらどうせケチだなんだって叩かれるんだ。 一発サインしか無いだろう」 「たかがって言うなよ」 日本でも有数の資産家である古都家には一億ぐらい”たかが”で片付いてしまう額なのだろうが、 常人が億の額を手にする可能性は人生でもほぼ無いと言っていいだろう。 弘樹も活躍すれば億の額を手に入れられるかもしれないが、そこまで活躍できる自信はない。 「俺は義巳だけど、お前は本気でいないの?対戦したい投手は。俺と違って野球好きだからあるだろ?」 「うーん・・・本当に対戦したい奴は同じチームだからな」 「ほう・・・誰?」 「お前」 関係者入り口から球場内に入り、 まだ誰も来ていない廊下を歩きながら弘樹が答えれば、泉は苦笑いを浮かべてから小さな溜息を吐いた。 「びっくりするほど打率良いもんな、お前」 「顔見れば投げる球種分かるからな」 「癖あるのか?」 「ねえよ?俺しか分からねぇんじゃね?俺も説明は出来ないから。 何となくとしか言えない。お前が義巳が何狙っているのかが分かって全然打たれないのと一緒」 同じチーム内で紅白戦で対戦すると面白いように打てるのは、 泉の表情を見ていると何となく投げる球種が分かるからである。 しかし、 何処がどのようになって分かるのかということに関して答えろと言われても困るのが正直なところだった。 長い付き合いだから何となく分かるとしか言いようが無い。 逆に大学時代から学校こそ違えど長く付き合ってきた東京ラビッツのドラフト1位ルーキー、 高瀬義巳は対戦しても殆ど泉から打つことが出来ない。 相性と言ってしまえばそれまでだが、 泉曰く、義巳が何の球を狙っていてどの辺に山を張っているのかが何となく分かるらしい。 大学時代、 散々対戦してきた義巳は中部クレインズの最大のライバル球団と言われる東京ラビッツに入団した。 東京と軽井沢。 新幹線で1時間30分程の距離。 近いとも言えるしそうではないとも言える。 それに感謝するべきなのだろうか、きっと感謝するべきなのだろう。