1.4月 1
「おかえりなさい」
「うおぉ!寝とれ、言うたやんか」
「だって、楽しみで寝られへんねんもん」
「そんなこと言って、肝心な時に熱出しても知らんぞ。早よ寝なさい」
午前3時過ぎ。
兄の考輝が帰って来ると言っていた通りの時間だったので予定通りだ。
少し予定と違う所は麗奈がまだ眠りについていないことぐらいだろうか。
予定では先に寝ている予定だった。
しかし、先程兄に言った通り今日のスケジュールを思い浮かべると全く眠りにつけなかった。
本日と明日、いつも忙しい兄が休みを取ってくれた。
大学進学祝いとして麗奈を旅行に連れて行く為だ。
流石に海外旅行にはいけないので国内旅行。
「まあ、新幹線で寝られるけどな」
「こーちゃん、疲れてない?」
「俺は慣れてるから大丈夫」
「無理しないでね」
進学祝いの旅行は嬉しいが、そのお陰で兄が倒れてしまっては困る。
麗奈にとっては何よりも兄が一番大切なのだ。
ただでさえ車椅子の彼女と一緒に旅行に行けば、余計な心労を掛けてしまうに決まっている。
だから一度は断ったのだ。
しかしそれを彼は良しとしなかった。
旅行代理店から貰ってきた大量のパンフレットは高校の卒業式前から家に置かれていた。
来る日も来る日も説得されて彼女は彼に甘えることにしたのだった。
「もうちょっとまとまった時間取れたら海外な」
「ええよ、そんなに無理しなくて。こーちゃんと旅行に行けたら、何処でも楽しいんやから」
「ほんまにお前はええ子やなぁ」
彼がそう言って褒めてくれるが自分がいい子ではないことは彼女が一番良く分かっていた。
彼の前では聞き分けの良い子だが、本心は全く違う。
去年彼に彼女ができた時は、
本当に彼女が憎く、早く別れないだろうかと思っていたし、何度もデートの邪魔をしようと試みた。
彼女と別れたと知った時は、少なからず落ち込んでいる彼を慰める振りをしながら心の中で万歳三唱。
兄の幸せを願えないとんでもない妹であった。
いつから自分はこんなに心が狭かったのか。
物心付いた時には既に兄を他の人間、特に女性に取られるのが嫌だったような気がする。
「早く寝なさい」
「はーい」
彼に言われて素直に寝室に向かう。
二人で住んでいるこの家、もちろん寝室は別である。
子供の時は一緒のベッドで寝ていた。
麗奈の身体的な事情もあり、彼女が中学に上がるまでは一緒のベッドで寝ていた記憶がある。
流石にもう一緒のベッドで寝ることはできない。
寝室に入り、車椅子からベッドにトランスしてから寝転がる。
眠気が来る気配がなかった。
あの様子だと兄は寝るつもりがないだろう。
新幹線で寝るつもりのようだ。
「チョコレート食べる?」
「こら!寝ろ言うたやろ?」
「こーちゃんと新幹線で寝るもん」
「それでも少し寝ときなさい」
3歳差の兄はわがままを言う妹を困った様に見つめた。
中途半端に寝て起きるよりずっと起きていた方がいい。
彼は心配しているが、別に熱を出したこともなかった。
しばらくすると諦めたのか、兄が溜息をつく。
「新幹線でしっかり寝ること」
「はーい!」
「で、なんや、そのチョコレート」
「スーパー行ったらね、安売りだったの。美味しいんだよ」
夜中にチョコレートなど勧める物ではないが彼の仕事上、不思議には思われなかった。
考輝は甘い物が好きではないが、このチョコレートはビターなので食べられなくはない。
しかし、麗奈の予想通り首を振った。
それなら飲み物でも淹れようかと車椅子を動かした麗奈を止めてから、
彼は満面の笑みを浮かべて今日の予定を話し出した。
「麗奈、大丈夫か?」
「うん、大丈夫だってば」
「なんや、あの駅員は・・・」
新幹線に無事乗り込んだ二人。
考輝は先程から駅員の愚痴をずっと言い続けていた。
「車椅子対応慣れていないんだよ。仕方ない」
「仕方なくない!」
目的地は和歌山だ。
和歌山に着いたらレンタカーを借りる予定だが、東京から和歌山までは当然新幹線移動となる。
健常者と違い車椅子ユーザーの電車乗降は特殊だ。
今日麗奈を対応した駅員はどうやら慣れていないようだ。
「でも、空いてて良かったね」
「ホンマや。ゴールデンウィーク入ったらこうはいかんで」
「そうだよね」
4月に入りすぐの今日の新幹線はそんなに混んではいなかった。
ぽつぽつと所々席は空いている。
考輝の顔がバレないためにも、空いているのはいいことだった。
これが5月だったら目も当てられない程混むのは予想がつく。
毎年毎年、ゴールデンウィークはニュースで高速道路の混雑具合を報道している。
「こっちは仕事やから迷惑やねん」
「そうだよね」
彼が芸能界の仕事をし始めてから堂上家はゴールデンウィークに旅行に行くことが無くなった。
もちろん、お盆や年末年始も。
麗奈が高校に入り、考輝と暮らし始めてからも年末年始に実家に帰れてはいない。
いつも年が明けて三ヶ日が過ぎてから考輝が事務所から休みを3日程貰えるので、
その時に一緒に実家に帰っている。
両親は麗奈だけでも先に帰ってきて欲しいみたいなのだが、
1人で新幹線に乗せられないと考輝に却下されている。
文句を言った両親に、
それならお前らが東京まで迎えにこいと応戦した考輝を止めたのは
東京に来て初めての年末年始の時だったか。
大学はカレンダー通り休みなので、どうしても彼女の予定が空くのは土日祝日。
曜日が関係ない仕事の彼とスケジュールが合うことはあまり無かった。
大学入学する前に旅行に行く事になったのはそのためだ。
「バレないといいね」
「帽子と眼鏡しとるから」
「それでいつもバレないの?」
「お前の方がバレやすい」
「どういうこと?」
「似てるから」
考輝は普段コンタクトをしている。
視力はとても悪い。
コンタクトか眼鏡がないと日常生活に支障をきたす程だ。
仕事中はコンタクト、普段は眼鏡である。
どうやらコンタクトはあまり好きではないらしく、家でコンタクトをすることは殆ど無かった。
麗奈は決して視力が悪くないので、そこは似ていない。
考輝は笑いながら彼女の顔と自分の顔を指した。
確かに麗奈自身も似ていると思っているが、流石に男女の差があるため間違われることはないだろう。
親族であることはバレるかもしれないが。
麗奈は笑いながら朝食代わりの飲むヨーグルトにストローを刺す。
「でも、すぐに妹だって分かるから、週刊誌には抜かれないよ」
「せやなぁ、ありがたいわ。似てなかったら、ややこしい事になるもんな」
「・・・良かったね」
「ん」
一口飲むヨーグルトを飲む。
白桃ピューレが入っているそれは彼女のお気に入りだったが何故か味がしなかった。
「・・・今どこ?」
「まだ当分着かんから寝ててええで」
「ん・・・」
ボーッとする頭で辺りを見渡すと、隣から考輝に声を掛けられた。
どうやら眠ってしまっていたらしい。
小さく欠伸をしながら膝の上のバッグを漁ってスマートフォンを取り出す。
発車時刻から1時間程経過していた。
「喉かわいた?」
「大丈夫」
だんだん頭がしっかりしてくる。
考輝は相変わらず眠そうなので、邪魔をしないようにスマートフォンを操作した。
「新大阪で乗り換えやから」
「終点まで?」
目を閉じたまま頷いた考輝。
麗奈は昔から酷い方向音痴である。
車の免許を取って、運転するようになった今でも方向感覚には自信が無かった。
昔から車が好きな考輝は逆で、方向感覚に優れていた。
なので、地図を読んだり乗り換えなどの作業は全て考輝の仕事である。
昔から麗奈は甘えっぱなしだった。
「腰とか痛くないか?」
「お兄ちゃん、寝てて大丈夫やで。私、座るの慣れとるし」
「ん・・・目覚めてきたな」
「あ、起こした?ごめんね」
「いや、大丈夫」
妹ながらドキドキしてしまう、彼の寝顔。
何度かぱちぱちと瞬きした彼はボーッと麗奈を見つめる。
目が悪い彼はコンタクトや眼鏡をしていない時にこのような仕草をすることが多かった。
見えていない故の行動とはいえ、凝視されている方は恥ずかしい。
麗奈が視線を逸らせば、しばらくしてごそごそと音がする。
バッグの中の眼鏡を取り出しているのは分かった。
黒縁眼鏡を掛けると普段とはまたイメージがガラリと変わる。
普段の彼よりも3倍増し程、知的に見えるのだ。
キツく見えると嫌がる人もいるが、彼女は彼のこの姿も好きだった。
「結局何でもいいんだな、私」
「何が?」
「・・・なんでもない」
「トイレか?」
お手洗いに行く時は端に掛けている車椅子を彼に取ってきて貰わないとならない。
乗車中にお手洗いに行くのが面倒なので新幹線に乗る前に全て済ませてきた。
一応新幹線内でも水分管理をしていたのでまだ余裕があった。
新大阪駅まで十分保つだろうと予想している。
「大丈夫だから」
「なんかあったら言えよ?」
「分かった。ありがとう」
「寝てても起こしてええからな」
普段、母が起こすと激怒する考輝は何故か麗奈が起こすと怒らない。
初めて麗奈が彼を起こした時に怒鳴り声が聞こえなかった事に母親が感動し、
それから考輝を起こす役は彼女の担当となっていた。
考輝の寝顔が麗奈は好きだったのでその役は嫌ではなく、むしろ率先してやっていた。
今でも、彼を起こすのは彼女の大事な仕事である。
寝起きが悪い彼を起こすのは大変らしく、
マネージャー等から何度もコツを聞かれたが分からないとしか言いようが無かった。
彼女は何の苦労もせず、毎回彼を起こせたからである。
今でも。
「着いたら最初は何処にいくん?」
「和歌山駅着いたらまずレンタカー」
「あ、そうか」
彼等の実家は大阪にある。
考輝が高校進学と同時に芸能活動をするため、東京に来た。
当時中1だった麗奈は離れたくないとわがままを言ったのを覚えていた。
彼女が中3の時、
第一希望であった大阪の高校へ願書を提出しようとしたところ、
学校にバリアフリー設備が充分に整っていないためという理由で受験拒否されたのだ。
障害を恨んだ初めての瞬間だったかもしれない。
引きこもって泣き続ける彼女の元に親から聞いたらしく慌てて戻ってきた兄。
彼女の部屋に入ってきた彼の手には聖龍学園高等部のパンフレットが握られていた。
「ここならバリアフリー整ってるし、来年から一人暮らしする俺の家からも通えるから」
「考ちゃん・・・」
彼が高校卒業と芸能活動を両立しているのが大変だというのは知っていた。
出席日数が足りるかが微妙で特別補習を組んでもらったりしていたらしい。
その合間を縫って、彼は聖龍学園高等部に付いて調べ学園見学まで行っていた。
純粋に嬉しかった。
まさか兄がここまでしてくれていたとは思っていなかったのだ。
麗奈は日々泣いているばかりで何もしていなかったのに。
それからの彼女の決心、行動は早かった。
親と兄に出来るだけ迷惑を掛けないよう奨学金の申請もした。
受験に失敗しないよう、受験対策も徹底した。
考輝は高校に通って仕事もしながら、麗奈と住むようのバリアフリー完備の部屋を借りてくれた。
「実家には行かないん?」
「行ってる暇ないわ」
「お母さんに怒られるで」
「黙っていれば大丈夫やろ」
「ホテル借りんと家に泊まればええのに」
「あかん。それは旅行ちゃう、帰省や」
「そうやけどさ」
それでも遊ぶんだから旅行ではないだろうかと思ったが、兄から強い口調で拒否された。
どうしてもホテルに泊まりたかったらしい。
せっかく兄が計画を立ててくれて、ホテルの予約も取ってくれていたのでそれ以上突っ込むのはやめておいた。
彼の機嫌が悪くなりそうだからである。
麗奈は窓の外の景色を見た。
「今名古屋ぐらい?」
「そんなもんやな」
「名古屋も楽しいよね」
「名古屋はまた今度な」
強請ったつもりではなかったが、結果的に強請った様な事になってしまった。
名古屋で兄達はコンサートをした事があったはず。
名古屋で食べた手羽先が美味しかったと言っていたので、麗奈も機会があったら食べたいなと思っている。
お土産で買って来てくれると考輝は言うのだが、やっぱり現地で食べる方が美味しいに決まっている。
考輝の相棒の司は海老フライが美味しいとか言っていたか。
彼女も海老フライは大好きである。
これから行く和歌山も、GRASEがコンサートをしたことのある場所。
何処に行きたいかと言われて自然とその場所が出てきたのは、
DVDの映像のコンサート会場が和歌山だったからだろう。
一般のファンの発想と殆ど同じである。
そう思うと少し笑えた。
考輝は少し驚いた表情を浮かべてから、別にええけど、田舎やで?と住人に失礼な発言をした。
その後すぐにええとこやけどとフォローしたのは職業病なのか、彼の優しさなのか。
少しおかしかった。
「今回は和歌山やけど、今度何処行きたい?名古屋の他に」
「京都!」
「京都は行ったことあるやんか」
実家に住んでいた時にと考輝が笑う。
確かに親に連れられて京都に行ったことはあったし、中学の修学旅行は奈良、京都だった。
でもそれが最後だ。
高校に進学してからは行ける機会を手に入れていない。
子供の頃と大人になった今では感じ方も違うのではないか。
そう彼に告げれば、少し考える素振りをした後にコクリと頷いた。
「司は京都やで、実家」
「そうやったっけ?」
「まあ、本人は大阪に長く住んでいたみたいやけど」
「やから話し方が柔らかいんやね」
「それはあいつの性格もあるやろ」
司が声を荒げた姿を見たこともないし、荒げている声も麗奈は聞いたことがなかった。
考輝に言わせると仕事の時は少し声を荒げる事もあるらしいが、
普段からキツイ話し方をする考輝と比べると雲泥の差らしい。
俺もあれだけ柔らかい話し方をした方が上手く生き抜いていけるのだろうかと兄が悩んでいた事もあった。
「予定通りやな」
「電車遅れなくて良かったね」
「よし、レンタカー借りに行くで」
「出口どこかな?」
「こらこら、勝手に動くな!」
「え?だって・・・」
和歌山駅。
彼がつい最近、コンサートで来た場所。
彼とその景色を見られていることが嬉しかった。
間違いなく、世界一幸せな堂上考輝のファンである。
考輝は勝手に車椅子を漕ぎ始めた彼女に眉を寄せて注意をしてから車椅子を押した。
彼女に勝手に動かれて迷子になるのを懸念しているらしい。
前科があるので文句は言わず、黙って押されていることにする。
子供の頃から今までに何度勝手に動いて迷子になって考輝に探されているのか。
間違いなく自分の恥になるので数えたくはなかった。
いつも彼は自分を見つけてくれるから安心しきってしまっているのかもしれない。
気を引き締めないと取り返しのつかないことになりかねない。
ということで自走は放棄する。
「予約している車借りてくるから、絶対ここから動くなよ?」
「分かった」
「頼むで?」
「分かっとるって。自分が方向音痴なのは分かっとるし」
「誘拐もされんように」
「大丈夫やて」
小さい事務所なので車椅子が入ることができない。
ここで待っていることを告げれば、考輝が心配そうに彼女を見ながら何度も何度も注意をする。
まるで子供に言い聞かせるように。
事務所はガラス張りで中から彼女の姿が見えるのに、である。
最後はなんだかおかしくなって来た彼女が思わず噴き出した。
心外だと言いた気な表情を浮かべて更に注意を促してくる彼をなんとか納得させ、事務所に入らせる。
手続きの間も彼女が気になるらしく、チラリチラリと様子を伺っている。
それに対して手を振れば、笑顔を見せる。
その笑顔はメディアでは見せない、対家族用の笑顔で特別扱いが素直に嬉しかった。
そして同時に、彼女に対する表情があるのかと不安になる。
「借りてきた」
スタッフが笑顔で出てきて車を出してくれた。
その車は麗奈の予想を反するプリウス。
彼が国産車を選ぶことが驚きだった。
そして、エンジン音が大好きである考輝の選択からは外れると思っていた車。
「どうして?」
「ん?嫌やった?」
「そんなことないけど・・・」
「レナ、前テレビ見て、ラベンダー色のプリウス可愛いって言うてたやろ?」
「言ってたかもしれないけど・・・」
確かに言っていたかもしれない。
しかし、彼の前で言っていたかかは覚えていないぐらいの記憶だ。
何処でそれを見たかも覚えていないがラベンダー色のプリウスを可愛いと思った記憶もあるし、
目の前にあるラベンダー色のプリウスは実際に可愛かった。
それを覚えて、しかも自分の好みを諦めてまで選んでくれたなんて。
不覚にも泣きそうになったが、今ここで泣いたら彼は困るだろうと何とか涙を堪えた。
考輝が助手席を開けたので、車椅子からトランスをする。
彼が車椅子を畳んで、トランクに積んだ。
いつも思うが、考輝の見た目もあいまって物語のお姫様みたいである。
柄ではないが。
運転席に乗り込んだ考輝は、
教習車以来国産車に乗ったことが無いようでスタッフから簡単に操作説明を受けていた。
慣れている外車の方が運転しやすいだろうに。
「ありがとう」
「たまには違う車も運転してみたいしな。レンタカーの醍醐味やろ」
「外車じゃなくて良かったの?」
「たまには。それにスポーツカーだと、レナが狭いやろし」
「今更だよ」
「せやけど」
彼の愛車は真っ赤なフェラーリ。
確かに乗り込むのに少し苦労するほど車高が低い。
「慣れてるから良かったのに」
「ええの。お前の車も無理行って外車にしたしな」
「あれは、私も気に入ったんだよ」
「気に入ってくれて良かったわ。俺も運転するから、国産車やと困るなと思って」
「でもハンドコントロールだから、私は設備が何処に有ってもいいんだよね」
免許を取ってすぐに車選びが始まった。
彼女の車はハンドコントロール仕様に改造しなければならなかった為、時間が掛かるのだ。
両親は国産車を勧めたが、ここで文句を言ったのが考輝だ。
彼女の他に運転する可能性があるのは考輝。
自分が普段外車を運転しているため、彼女が国産車だと運転し辛いというのがその理由。
両親は文句をぶつぶつ言っていたが結局考輝の勧めるドイツ車で話が進み、購入することになった。
彼の車と大きく違うところは、右ハンドルであることだろう。
彼女は今の自分の愛車が気に入っていた。
彼と同じ赤い愛車。
「麗奈の車ちょくちょく乗ってて良かったわ」
「右ハンドルだから?」
「うん」
「考ちゃんの車、左ハンドルだもんね」
「あれはあれでええけどな」
どうしても駐車券を取ったりするのに左ハンドルは不便である。
路駐をする時には楽だが。
麗奈はどうしても一度車に乗ってしまうと簡単に降りるわけにはいかないので、
できる限り降りない様に右ハンドルの車にする必要があった。
幸い右ハンドルの車はすぐに見つかり、改造を行うことが可能になった。
一ヶ月ほど掛かったように思う。
大学入学に間に合って良かった。
高校時代はバスで通っていたが、結構重労働だったのだ。
近くに住んでいる友達が一緒に通ってくれていたので良かったが、これからはそうもいかない。
彼女とは学部が違うのだ。
「大学の場所覚えたか?」
「覚えたよ。薬学部だけだけど」
「それで充分やろ」
「あ、あと、芸術学部も覚えた」
「それは安心や」
聖龍学園は幼稚部から大学までの校舎が並んでおり、広大な敷地である。
方向音痴の麗奈には苦行としか言えないような広さで、
高校から外部入学した彼女は元来の方向音痴もありよく迷子になっていた。
「遊梨ちゃん居らんくて大丈夫か?」
考輝の心配も今回ばかりは分からなくもなかった。
なにしろ麗奈自身も少し心配なのである。
遊梨は麗奈と同級生で、幼稚部から聖龍学園に通っているため庭のように敷地について詳しかった。
高校時代はずっと彼女の後についていたのだ。
彼女は今年から芸術学部に進学したため、もしかしたら会う機会は減るかもしれない。
「スマホはちゃんと持っておけや?」
「分かっとる」
「迷子になったら無理せず、遊梨ちゃんにすぐに連絡すること」
「はーい」
「自分で解決は不可能やねんから」
「酷いなぁ」
少し口を尖らせて見たが、簡単に無視された。
やっぱり大量の前科がそうさせるらしい。
実際、高校時代にも何度か行方不明になり教師陣に探されたことがある。
彼女は車椅子の為、
一般生徒と同じように階段を降りることが出来ずエレベーターを使うことになるので、
教師陣に見落とされることが多かったようだ。
遊梨が休みの日などにそれは起きやすい。
そして、麗奈も麗奈でエレベーターの場所を間違えるというのも問題だった。
「・・・心配」
「大丈夫だよ、・・・多分」
「お前の多分は世界一信用でけへん!」
「酷い!」
「信用されるようなことはしとんのか?」
「・・・してないけど」
一番迷惑を掛けている人間に言われ言葉に詰まる。
昔から散々面倒を掛けてきた。
何処からでも助けに来てくれるスーパーマン。
どうして彼は兄なのか。
それを疑問視するようになったのはいつだっただろうか。
彼が兄であることに一番感謝しているのは紛れもなく自分自身なのに。
遊梨にも兄がいる。
彼女はしょっちゅう兄の愚痴を述べているが、麗奈には一つも兄に対する不満が無かった。
ブラコンだと皆は笑うが果たしてそれは正しいのだろうか。
「それで、大学での目標は?」
「友達作る。そして、出来たら彼氏も作る」
「なに!?」
そろそろ兄離れをしなければならないだろう。
兄だって恋愛をするのだ。
そしてそのうち結婚するのだ。
このままでは姉となる人にまともな感情を抱けなくなるのは目に見えていた。
だから、一刻も早く兄離れをしなければならない。
兄は麗奈が車椅子ユーザーで、普通の人間とは違うから特別気にかけているだけだ。
早く彼氏でも作って楽にしてあげなければならない。
そう思って口に出した言葉。
自分に言い聞かせる為に口に出した言葉。
理想が兄だと言えている内はいい。
兄でなければダメだと思ってしまったらおしまいだ。
それはいけないこと。
今ならまだ大丈夫。
理想のタイプは兄のような人。
兄ではない。
この愛情は兄弟愛だ。
恋愛感情など許されない。
「彼氏って・・・」
「考ちゃん!前!信号!」
「うわっ!」
「・・・危ない・・・」
「ったく・・・お前が変なこと言うからや」
完全に顔が助手席に向いていた考輝は麗奈の指摘で赤信号に気付き、慌ててブレーキを思い切り踏んだ。
けたたましい音を立てて車はギリギリ停止線で止まる。
ホッと溜息をついていると険しい顔で兄に睨まれた。
別に麗奈はおかしなことを言ってはいない。
もう19歳。
彼氏が居てもおかしくない年齢である。
実際同級生にも、遊梨にも彼氏がいる時期があったのだ。
麗奈も何人かから告白されていた。
何と無く気が乗らなくて断っているのだ。
「あかん!麗奈にはまだ早い!」
「早いって・・・もう19・・・」
「俺が認める男しか絶対あかんし、そんな男はおらん!」